研究活動

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2015年度 第3回 文化講演会

報告題目若き日の親鸞聖人―天台修験=回峰行の修行をとおして―
開催日時2016年3月5日(土)13:30~15:00
場所龍谷大学響都ホール校友会館
報告者淺田正博(龍谷大学名誉教授,浄土真宗本願寺派勧学)
参加者168名

【講演のポイント】

 自身の事について多くを記し残していない親鸞聖人のことは、後世の縁者が記した書物をもって知るより他なく、今日に伝わる諸史料や伝説に基づきながら、比叡山における若き日の聖人の様子について明らかにした。

【講演の概要】

 『親鸞伝絵』のなか「それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風をとぶらひて、広く三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流をたたえて、ふかく四教円融の義にあきらかなり」という文を挙げ、この「仏乗」には「一」が省略され、「一仏乗の理」という意であり、聖人が天台一乗の教理に深く通達していたと見なされていたことを指摘する。

 また、『嘆徳文』のなか「定水を凝らすといえども、識浪しきりに動き、心月を観ずるといえども、妄雲なをおおう」という文を挙げ、禅定の境地を懸命に目指したが、煩悩(識)の浪がしきりに起こり、明鏡止水の心境に達することができなかったこと、また、仏性の意である「心月」を見ようと努力するも、煩悩(妄)の雲が覆って見ることができなかったことということより、求道の完成し得ない聖人の悲痛な叫びとして読み解くのである。

 そして、『恵信尼消息』のなか「この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておわしましけるが、山をいでて六角堂に百日篭もらせたまひて、後世の事祈りもうさせたまひける、九十五日の暁のご示現の文なり」という文を挙げ、佐藤哲英氏の学説を論拠とし、聖人が比叡山において常行三昧堂の堂僧であったと示すのである。

 これらの史料から考え得る若き日の様子に加え、比叡山東塔南側の無動寺谷に伝わる伝説に基づきながら、聖人が回峰行者であったということに話が及ぶ。当時、無動寺谷は慈鎮和尚が検校を務めていたことより、聖人が得度して直ぐの頃はここに居たと考えることができるとし、この大乗院に聖人の御絵伝が残ることからも可能性が高いとする。聖人の生涯の出来事のなか、六角堂参籠はこの大乗院から日参したと考えられている。日中は周りの小僧と同じく過ごし、夜中に皆が寝静まった頃に抜け出して六角堂に向かい、皆が起きてくる前に帰って来たというものである。すると、夜中に聖人が居ないという噂がたち、その真偽を確かめようと慈鎮和尚が小僧の数だけ蕎麦を用意した。そして、蕎麦が振る舞われ、居ないはずの聖人が蕎麦を食べている一コマがこの御絵伝には描かれている。明け方、六角堂より帰って来た聖人が阿弥陀如来像を見ると、その口元には蕎麦が付いていたという話である。これは阿弥陀如来が聖人の姿となって蕎麦を食べたという「蕎麦喰いの御木像」の伝説である。

 光永覚道大阿闍梨に大乗院と六角堂の往復に要する時間をたずねると約3時間と言われた。これなら通いの参籠が可能と考えられ、回峰行を行っていたからこそ可能せしめたと考えるのである。しかし、千日回峰行を行ったとしても、自身の求道の完成が見えず、そういう心境が『報恩講私記』や『嘆徳文』に表されているとするのである。

 天台学は教義の上では一乗であるが、現実には地獄に行くことしかできない身であり、ここに教義と現実のギャップがある。聖人は一乗の教えが真実であれば、この地獄必定の者にも仏と成る教えが必ずあると信じ、自身が進むべき道を六角堂の観音様にたずねられたと考えるのである。そして、この参籠により法然聖人の念仏の教えに出遇うことができ、この教えこそが地獄一定の私を仏と成らせる教えだったのである。教理としては天台の教えを受け継ぎ、自力ではなく本願他力の方向へと進んだことが、「誓願一仏乗」の一言に表されているとまとめられた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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