研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第2回学術講演会

報告題目中世びとの信仰の形態
開催日時2016年5月30日(月)17:30~19:00
場所龍谷大学大宮学舎清和館B101
報告者大喜直彦(本願寺史料研究所上級研究員)
コメンテーター杉岡孝紀(龍谷大学農学部教授)
参加者36名

【報告のポイント】

 大喜氏は中世史の専門家であり、いわゆる社会経済史の手法を用いながら、独自の「信仰社会史」を提案されている。氏によれば、中世びとは自然現象・動植物などに神仏を見出し、信仰の世界に共生していた。そうした中世人びとを取り巻く身近な「信仰」世界の実像を明らかにし、さらに親鸞の浄土真宗の信仰とその流伝について講演がなされた。

【報告の概要】

 当時は落雷から花の開花に至る全ての自然現象を、科学的な根拠無しに認識していた時代である。例えば落雷については「天魔所以勿論」(『看聞日記』より)とあり、三十三間堂の風神・雷神の木像はそのイメージが立体的に表現されたものと考えることができる。また、日常生活のなかでは、子どもの着物の背守り、枕元の守刀、また、数珠については僧侶に限らず庶民にも普及していた。これらのように中世は神秘的、宗教的、信仰的なものにあふれており、このなかでは神道、仏教という明確な区別はなく、不思議な力や存在に惹かれ、生きる上での意味が重要視されていた。現代人の感覚からすれば、荒唐無稽なことと思いがちであるが、このような価値観で当時の世界が回っていたと理解することが大事であり、当時の「信仰」は基本的に日常生活に密着したものであり、畏まった難解なものという認識ではなかったようである。

 このような認識は日本人が持つ独特な自然観に基づくものであり、古来より自然に対して畏敬の念を持ちながらも共存をはかってきたことが一つの理由である。一方、西洋ではキリスト教の影響が強く、人間の条理に従わせ、征服・搾取・利用しようとし、神-人間-自然という序列が基本である。日本人は自然との共生を信条とし、様々な自然現象を畏れ愛でることは動物や虫にも及び、これらの各伝承は人間との密接な関係の上に語られることが多い。上述の中世における信仰の形態を踏まえ、続けて親鸞が名号を本尊として用いたことに言及していく。

 今日においては、「南無阿弥陀仏」と文字で書かれた本尊であろうと、阿弥陀仏の絵像の立体仏が書かれた本尊であろうと、どちらも同じく仏様であると理解することはできる。しかし、中世においては、これらの文字を仏様・本尊と理解することができたかどうかが疑問である。既に文字を知る者にとっては仏像として見ることは難しく、これらの文字を同じく仏像と見るには、文字を持たない世界が前提と考えざるを得ない。さらには、文字そのものを不思議に感じ、手を合わせるような、そんな感覚や社会状況も前提となると考えられる。

 当時の識字の様子を伝える史料によれば、『沙石集』には文字の書けない僧侶の存在をうかがわせる一文がある。この他、『細川両家記』には細川家に仕えた香西元盛が文盲であったと記してあり、文字が書けない国人層(在地領主)の存在を示すものである。さらには、『法然上人絵伝』や『親鸞聖人伝絵』において布教の様子を伝える絵には、聴衆の誰ひとりとして話を書き記す様子が描かれていないことからも、識字の状況をうかがうことができる。そもそも、字を書くことにおいては生活や仕事の上にその必要・不必要が大きく関わり、江戸時代には識字率が飛躍的に上がるが、鎌倉、室町時代は未だ低い状況であり、字を書けない人、その必要が無かった人がたくさんいたはずである。

 また、文字そのものに対する当時の認識を伝える史料によれば、『康富記』には字に吉・不吉のものがあり、災害等を表す不吉の字は薄く、細く書き、福・徳・寿命等の吉の字は濃く、太く書くようにと勧められている。これは文字が現実化すると観念され、不思議な力を感じていたことを如実に示している。この他、『蓮如上人一語記』には名号本尊が焼けて六体の仏体となった話が記され、文字である名号が単なる文字としてではなく、これらの文字一字一字が仏体であると観念されていたことを物語り、これは「聖なるもの」ととらえていた好例である。識字率の高低にかかわらず、文字そのものには不思議な力が具わると認識されていたのである。

文字を持たない者にとっては一字一字の意味は重要ではなく、これらの文字そのものをいかに見て、いかに感じていたかを考えることの方が大事である。そもそも、中世の信仰形態は非常に素朴なものであり、この世界に知識人は飛び込み、研鑽を重ねるなかに執筆や布教を行っていたのであろう。親鸞においては主著の執筆時期や、今日に伝わる花押等に基づけば、関東の影響が非常に強かったと考えられる。それらのことより、関東の人々の生活と密着した信仰により、親鸞の教義・思想が磨かれていったと考えることができるとして講演が締め括られた。

【議論の概要】

 大喜氏は、江戸時代に合理的・理性的に物事が考え始められた理由について、生活の全てが戦に向けられていた戦国の時代が終わり、医療・学問等に向けられるようになったことが大きく、1600~1700年の間に定着して全世界でも類を見ない人口増加を可能にしたと答えられた。

また、親鸞の著述の高度さと当時の一般大衆の識字の程度が余りにも懸け離れていることについて問われると、当時はそもそも日常会話においても方言による意思の疎通の難しさがあったと考えられ、そうした状況だからこそ親鸞は「対話」を重要視し、次第に人々の信頼を得ていったのではないかと指摘された。

【文責】アジア仏教文化研究センター
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