研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第4回学術講演会

報告題目明恵と高山寺
開催日時2016年6月25日(土)13:15~17:00
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階253教室
参加者76人

■報告者・報告題目:

野呂 靖(龍谷大学文学部講師)

 「明恵と高山寺の教学 ―宋版『華厳五教章』の受容をめぐって―」

森實久美子(九州国立博物館企画課研究員)

 「明恵の釈迦信仰」

伊藤久美(奈良国立博物館学芸部美術室研究員)

 「明恵をめぐる絵巻製作 ―「華厳宗祖師絵伝」を中心に―」

■総合司会:西谷 功(泉涌寺学芸員)

■趣旨説明・講師紹介:宮治 昭(龍谷大学文学部教授)

【報告のポイント】

 『華厳経』の教義・思想に関する研究と華厳宗の図像・美術に関する研究を総合した最新の研究成果が報告された。

【報告の概要】

野呂 靖(龍谷大学文学部講師)

 「明恵と高山寺の教学 ―宋版『華厳五教章』の受容をめぐって―」

 明恵は東大寺尊勝院本(和本)や寿霊『五教章指事』など奈良・平安期から継承される華厳学を学んでいたが、建保年間を前後してもたらされた宋版の華厳章疏類によって、その宗教環境は大きな転換を迎えたと考えられる。

 『五教章類集記』に示された明恵の理解は断片的なものではあるが、「宋本」の優位性が示されており注目される。喜海など門弟たちはこうした明恵の指示のもとに奈良・平安期の伝統的な解釈を踏襲しつつも、宋代華厳の註釈を導入し、種々の矛盾を会通していく作業を進めていったのである。その意味で、高山寺にもたらされた宋代文献は喜海を中心とする門弟たちの時代に深く読み込まれ、「講読」「談義」という教学研鑽の場を舞台に「実質化」していったといえる。

森實久美子(九州国立博物館企画課研究員)

 「明恵の釈迦信仰」

 常々、明恵は釈迦を父として敬い、仏眼仏母を母として慕い、「釈迦如来如来滅後遺法御愛子成弁」と自ら述べるほどである。この想いは10代の頃より強く、仏・菩薩が衆生の為に命を捨てたように、自身の命終もそのように迎えたいと考えていた。24歳の時、修行や経典の読誦において耳が無くても妨げにはならないと考え、仏眼仏母像の前で右耳上半分を削ぎ落とし、これまでの捨身の想いを成し遂げたのである。

 また、玄奘三蔵の伝記や『高僧伝』等の書物を読み、遠いインドの仏跡や仏伝へ想いをはせていた明恵は、30歳の頃にインド行きを計画する。しかし、春日明神の託宣により思い留まっている。その後、釈迦信仰の先がけであり、影響を強く受けていた貞慶を訪ね、鑑真ゆかりの舎利を譲り受けている。明恵はこの頃『十無尽院舎利講式』を著し、43歳の時にはこれを元として『四座講式』(涅槃講式、十六羅漢講式、遺跡講式、舎利講式)を著し、涅槃会の勤修に用いていたと伝わる。

 経典の中に説かれる釈迦像を追った信仰心というよりかは、恋慕の情をもって釈迦に想いを寄せていたと表現する方が的確なようである。

伊藤久美(奈良国立博物館学芸部美術室研究員)

 「明恵をめぐる絵巻製作 ―「華厳宗祖師絵伝」を中心に―」

 『華厳宗祖師絵伝』は新羅の華厳宗の高僧である義湘(625~702)と元暁(617~686)の行状をそれぞれ絵巻とした「義湘絵」四巻と「元暁絵」三巻(修理後の現状)から成り、鎌倉時代(13世紀)に成立して京都・高山寺に伝わり、現在は国宝に指定されている。

 本来、「義湘絵」と「元暁絵」は別々に作られ、画風、様式、図像、画面構成等に両者違いがあり、筆者も異なることが「義湘絵」裏打書や『看聞御記』に基づいて指摘されている。成立の由来については、「義湘絵」は善妙寺創建に関わり、「元暁絵」は光明真言土砂加持の盛り上がり以後、高山寺において元暁への称揚が高まったためと考えられる。

 義湘・元暁ともに明恵とのイメージの重なりは否定されないが、単純に明恵に似せたとは言い難い。両者それぞれを讃嘆しようとする意図と、義湘と善妙とのやりとりといった逸話を描こうとする興味、意欲が混在していると考えられ、単純な祖師絵巻ではない。高山寺における祖師像制作の様相は、他宗祖師の絵伝制作とは異なる趣がある。

【議論の概要】

 最近の鎌倉時代の研究において、宋代の文物の受容に関して注目が集まっている。建仁寺の栄西や泉涌寺の俊芿が帰国して京都に集結し、宋代の版本や絵画が日本に持ち込まれた建保年間(1213~1218年)初頭、明恵も丁度京都に在しており、それらの文物を見易い環境にあったと推察することができる。そこで、実際の明恵の受容状況や、それ以後の影響について各方面より意見が出され、理解を深めることができた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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