研究活動

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2016年度 グループ1ユニットB 第2回研究会

報告題目『THE BIJOU OF ASIA(亜細亜之宝珠)』研究会(第2回)
開催日時2016年6月23日(木)17:00~19:00
場所龍谷大学大宮学舎清風館3階共同研究室1
参加者9人

【報告の概要】

 碧海寿広氏は,中西直樹,吉永進一『仏教国際ネットワークの源流―海外宣教会(1888~1893年)の光と影』(三人社,2015年)の序章「海外宣教会から仏教モダニズムまで」(吉永進一著)の内容について報告を行った。

 明治20年代,京都を中心的な場として,一部の仏教者たちが海外における仏教の動向・情報に関心を寄せ,情報の収集・発信を行うという状況が見られた。拠点となったのは,西本願寺の普通教校と,英学校オリエンタルホールの二つであった。

 普通教校の教員・学生らは,「海外宣教会」を設立した。欧米への文書による仏教伝道,および日本初の英字仏教紙(『THE BIJOU OF ASIA』)の出版を行った。オリエンタルホールの館主である平井金三は,明治22年にヘンリー・スチール・オルコット(神智学教会会長)を日本に招聘した。

 明治27年以降,こうした国際化の波は急速に引いていった。かわって,台湾への植民地伝道や,日系移民への伝道のほうに,日本仏教の主軸が移っていった。とは言え,この「失敗した」国際化ブームが生じた背景は,歴史的に見て意義深い。

 第一に,当時の仏教界には強い危機感があった。仏教界の腐敗が意識され,仏教の改良が願われていた。特に,「文明国」である欧米からの承認が求められた。井上円了による西洋哲学を応用した仏教活性化の試みが好評を博したように,白人仏教徒であるオルコットの来日も,喝采をもって迎えられた。

 第二に,仏教結社活動が盛んであった。明治10年代から宗派を超えた結社が数多く作られ,こうした動向が20年代初期まで続いた。海外宣教会は,その最後の時期に属した。

 第三に,スリランカとの関係があった。パーリ語経典を保持する国として日本からの留学先に選ばれることも多かったが(釈宗演ら),それに加えて,アジアでいち早く仏教復興を達成した国として注目されていた。オルコットが同地で英文の『仏教問答(A Buddhist Catechism)』を出版してベストセラーとなり,また仏教系の学校を数多く設置した。このオルコットの功績を平井が高く評価し,日本に招聘することとなった。

 第四に,欧米での仏教流行があった。マックス・ミュラーらの仏教学研究,エドウィン・アーノルドによる仏陀を主人公にした文芸作品に加え,神智学教会の影響力が大きかった。1875年に設立された同会では,オルコットのほか,ロシア人女性のヘレナ・ブラヴァツキーが,「秘密仏教」(esoteric Buddhism)という,オカルト的な思想を提示していた。その思想は,アジアの仏教とはかけ離れていたが,しかし欧米ではアジア仏教と混同されながら流行した。この神智学教会の国際的ネットワークの一端で,海外宣教会も成立した。

 日本仏教とは大きく異なる欧米の自称「仏教者」たちの仏教は,しかし日本の仏教者と共振しあう部分もあった。それはたとえば,禁酒や社会貢献などを通した,宗教改革という点においてであった。

 以上のような,明治20年代における日本仏教の国際化の展開は,現代の欧米において顕著な「仏教モダニズム」の源流の一つとしても,位置づけることが可能である。

 「仏教モダニズム」とは,現代の欧米人の仏教理解の最大公約数とでも言うべきものである。おおよそ,伝統にとらわれず,瞑想の実践を重視し,自然科学と調和的で,菜食主義者に共感し,社会意識も高い傾向のある人々が抱く,仏教のイメージである。

 鈴木大拙は,日本におけるその先駆者の一人であった。彼は,西洋哲学,東洋学,宗教学などの西洋文化と,仏教をはじめとするアジア文化との往還から生まれた,仏教モダニストであった。だが,その存在は孤立したものではなく,彼もまた明治20年代の国際化の波に乗った仏教者の一人であった。

【議論の概要】

 報告を受け,序章の著者である吉永氏を中心にして議論が行われた。要点は以下のとおり。仏教の欧米社会における影響は,明治20年代頃の一過性のものではなく,その後にも思想的な影響を与えている(ショーペンハウアーなど)。特に鈴木大拙が提示した大乗仏教論については,当初は受け入れられなかったが,大正時代に雑誌『Mahayanist』で再評価の動きが見られるなど,後にアメリカのミドル・クラスの人々が広く仏教を受容する際の下地は存在し続けた。また,西洋に目を向けた日本の仏教界にとって,欧米の神智学は「似て非なる他者」であり,そこにはお互いの誤解があったが,しかしそうした誤解もまた当時の仏教者の視野の広さによって可能になっていた。海外宣教会の運動は,現場と教団(西本願寺)側とのギャップがあり,トータルな戦略も無く「失敗」に終わったが,その後も雑誌『Light of Dharma』の刊行など,海外布教を志す仏教青年による同様の活動は見られた。

 以上のような議論を踏まえ,今後はさらに,海外宣教会に関わった僧侶らの寺院での調査も含め,関連の資料を新たに収集していく必要性もある,との問題意識が共有された。

以上

【文責】アジア仏教文化研究センター

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