研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第5回学術講演会

報告題目親鸞と東国の人々
開催日時2016年7月18日(月)15:00~17:00
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
報告者今井雅晴(筑波大学名誉教授)
ファシリテーター杉岡孝紀(龍谷大学農学部教授)
コメンテーター川添泰信(龍谷大学文学部教授)
参加者45人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【報告のポイント】

 歴史研究者の今井氏より、鎌倉時代の常識や、東国諸地域の地理、歴史等に基づきながら、従来の認識とは異なる東国移住当時の親鸞とその周辺についてご講演いただいた。

【報告の概要】

 『親鸞伝絵』に「聖人越後国より常陸国に越て、笠間郡稲田郷といふ所に隠居したまふ。幽棲を占むといへども道俗跡をたづね、蓬戸を閇といへども貴賎衢に溢る」とあることより、当時の東国は荒野で、さらには無知蒙昧な住人ばかりであり、そのような所へ親鸞は移住したという認識が定着している。しかし、そもそも親鸞が布教を目的として東国に移住したのであれば、荒野では意味が無いと考える方が自然である。平安時代の『延喜式』によると、全国を年貢の取れ高順で四つ(大国・上国・中国・下国)に分けたなか、常陸国は大国であり、陸奥国に続く第2位とする史料もある。今日の農業生産額では北海道が1位、茨城県が2位であり、順位の多生の変動は近年あるものの、伝統的に農業生産物が豊かな土地であることに変わりない。また、『笠間市史』(笠間市史編さん委員会 編、1998年)によると、稲田は街道沿いの宿場町であり、稲田神社がある門前町であったことがわかる。これらの諸史料より、親鸞が移住した先は荒野ではなく沃野で、様々な人が行き交う地であったと認識を新たにする必要がある。

 親鸞の東国移住の目的は諸説ある。当時の仏教界には、新しい意欲に溢れ、伝統的な思考とは異なる僧侶たちが鎌倉をめざす流れがあった。幕府の有力者たちに認められ、京都へ凱旋することを目的とし、その例として臨済宗の栄西や真言律宗の忍性が挙げられる。親鸞の場合は関東で布教し、そこから鎌倉に入って有力者に認められることが、目的の1つと考えることができる。

 また、移住当時は親鸞、恵信尼、数え4歳の信連房、7歳くらいの小黒女房の4人家族であり、これら小さい子どもと一緒に食うや食わずの旅路を歩くことができただろうか。近年の歴史研究では、当時の高い自己防衛・救済の意識と見知らぬ者への強い警戒心が強調されている。そうしたなか、何事もなく稲田に住んだと記されていることには大きな意味がある。これは当時の稲田の領主が親鸞に居住の許可を与えたか、もしくは招いたとも考えることができる。当時の領主は稲田頼重であり、在所の宇都宮家は下野国の中部・南部から常陸国の笠間郡をも占める大豪族であった。この一帯の領主は兄の頼綱であり、法然最晩年の門弟(法名:実信房蓮生)であったことには注目され、同門で5歳上の親鸞に何らかの援助をしたと考えても不思議ではない。親鸞が頼綱を頼り、この地を移住先に選んだと考えることもできる。

 また、親鸞の門弟の出自についても諸説あり、その多くが農民という認識が定着している。『親鸞伝絵』には「其此、常陸国那荷西郡大部郷に平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の御訓を信じて専弐なかりき。而、或時件の平太郎、所務に駆れて熊野へ詣べしとて(以下略)」とあり、この「大部郷」とは熊野の領地であり、「所務」とは荘園の仕事であり、農民がすることはまずあり得ない。また、この「庶民」と意を同じくする言葉に「庶人」とあり、京都の貴族で位のない者や、地方の武士で京位・京官のない者の意であることより、現代の「庶民」の意とは異なることに注意すべきである。これらのことより、大部平太郎は武士であったと考えるべきである。さらに、『親鸞聖人門侶交名牒』には「真仏 下野国高田住」「入西 常陸国住」等とあり、この「住」とはそこに住む者というだけの意ではなく、武士身分の者であることを意味する。農民は自分の土地を持っておらず、所領する身分の者のみ「住」と付けることができた特権である。これらの史料に基づくと、親鸞が布教した相手のなかには武士出身の者も多く、後に有力な門弟となっていったのである。

 この武士たちが抱えていた殺人への罪悪感や堕地獄への恐怖や苦悩に対し、法然、親鸞が説いた「悪人正機」説は確かな救いとなり、門弟を増やし、教えを広めることを可能にしたと考えることができる。また一方では、東国への移住後も夫婦・家族で生活するなか、その中心には念仏の教えがあり、この在俗生活の中の念仏の救いに周りの人々が興味を持ち、次第に教えが広まって行ったとも考えることができる。常に親鸞は既存の価値観を排他的に扱うことなく、また念仏の教えを押し付けることもなく、相手と対話しながら巧みに教えを広めたのであり、この布教方法は今日の我々も大いに学ぶべき点がある。

【議論の概要】

 親鸞に対する従来の認識を再検討することは、これまでも諸研究者より声が上がっていたが、改めてその必要性を確認した。また、勢観房源智が造立した阿弥陀立像の胎内から4万人以上の名前が書かれた交名帳が発見されたことにより、当時、法然の教えは関東、全国に広まっていたと考えることが可能であり、東国諸地域の法然に所縁ある宇都宮頼綱や熊谷直実等を、親鸞は頼って越後から向かって行ったと考える方が自然であると講演内容を補足した。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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