研究活動

研究活動

2016年度 グループ1ユニットA 第7回学術講演会

報告題目玄奘三蔵と法相宗の美術―弥勒信仰と美術―
開催日時2016年10月29日(土)13:00~17:00
場所龍谷大学大宮学舎清和館3楷ホール
参加者53人

■報告者・報告題目:

打本和音(龍谷大学アジア仏教文化研究センター RA)

 「弥勒経典と初期弥勒信仰の美術 ―ガンダーラから中国北魏へ―」

泉 武夫(東北大学大学院文学研究科教授)

 「中国・日本の弥勒信仰とその美術」

北澤菜月(奈良国立博物館学芸部研究員)

 「日本における兜率天曼荼羅 ―南都周辺の作例を中心に―」

■総合司会:西谷 功(泉涌寺学芸員)

■趣旨説明・講師紹介:宮治 昭(龍谷大学文学部教授)

■共催:科学研究費助成事業 基礎研究(B)課題番号26284026「中央アジア仏教美術の研究―釈迦・弥勒・阿弥陀信仰の美術の生成を中心に―」(代表:宮治 昭)

【報告のポイント】

 弥勒信仰の特に上生信仰に関わる論説を主としながら、ガンダーラから日本の鎌倉に至るその影響について、経典や図像、そして、兜率天曼荼羅の各研究者より最新の成果が報告された。

【報告の概要】

打本和音(龍谷大学アジア仏教文化研究センターRA)

 「弥勒経典と初期弥勒信仰の美術 ―ガンダーラから中国北魏へ―」

 弥勒信仰は上生信仰(時節:現在、場所:兜率天、対象:弥勒菩薩)と下生信仰(時節:未来、場所:閻浮提、対象:弥勒仏)という構造をもつ。弥勒六部経のなか、上生信仰に関わるものに『観弥勒菩薩上生兜率天経』(劉宋・沮渠京声、AD.455?)があり、光や女性の描写等の快楽的表現が特徴であり、成立は新しく、この一経のみとみなされている。また、下生信仰に関わるものには『弥勒来時経』(東晋代失訳)、『弥勒下生経』(西晋・竺法護、AD.303?)等の五経があり、成立は古く、多く存在している。

 「兜率天上の弥勒菩薩」図には、「結跏趺坐」の姿勢で、兜率天における説法を表現し、「特殊な建築物」をもって地上の建物と区別していると考えられる「1類」と、「交脚倚坐」、「掌を内に向ける印」、「遊牧民の男女」という特徴を有し、王者を表す際の表現方法をもって、弥勒を兜率天主として人々が意識していたことを暗示する「2類」がある。

 ガンダーラの「兜率天上の弥勒菩薩」図からは、当時、弥勒が兜率天主として理解され、上生経の訳出より古い時代に図像が成立し、一定数の図像が確認できることがわかる。また、カーピシーの図像は定型化・硬直化した表現であり、燃燈仏授記、双神変の愛好等の特定主題を制作する傾向にあることより、前の「1類」と「2類」の融合と考えることが可能であり、ガンダーラ→カーピシー→中国という変遷を認めることができる。

泉 武夫(東北大学大学院文学研究科教授)

 「中国・日本の弥勒信仰とその美術」

 兜率天上の弥勒の造像はインド・西域から中国へと伝わっていく。初期は交脚座(持水瓶または転法輪印、ないし施無畏・与願印)であるが、中国化されていくなかで結跏趺坐ないし倚坐に変化し、敦煌壁画では上半身裸形条帛着装からガイ襠衣に変化している。

 隋代より「弥勒経変」として敦煌壁画に絵画化がみられ、弥勒下生経変の一部に上生経変=兜率天浄土図があることが指摘されている。隋から盛唐にかけて種々の図様が展開され、しばしば園林描写をともなうものが特色である。中晩唐以降は横列三院型に形式化し、中国では兜率天浄土図は例外なく左右対称構図である。また、弥勒浄土と阿弥陀浄土の優位性について、退転・不退転、難行・易行等の対比をもって論争がおきていた。

 日本の平安後期には源信が『往生要集』において阿弥陀仏と弥勒の併存を容認し、両浄土の性格の差について整理されてきた。また、埋経(経塚)の流行および両信仰の併存より、「横は極楽、縦は兜率」という観念が定着していた。中世においては上級貴族や高僧には上生信仰が、社会の底辺では広く下生信仰が流布した。興福寺の解脱上人貞慶(1155~1213)、高山寺の明恵上人高弁(1177~1232)、東大寺の東大寺宗性上人(1202~1278)が上生信仰の新たな担い手として現れ、貞慶の『観音講式』によれば、臨終寺に観音の来迎を求めたことがわかる。

北澤菜月(奈良国立博物館学芸部研究員)

「日本における兜率天曼荼羅 ―南都周辺の作例を中心に―」

 奈良時代には様々な浄土の1つとして彫像、繍仏、絵画などのかたちで、興福寺や薬師寺、唐招提寺等の寺院内で制作された記録が残り、「弥勒浄土」の他に「釈迦浄土」、「薬師浄土」、「阿弥陀浄土」等があった。また、平安時代には「阿弥陀浄土」に並び、没後の往生を望む場として「兜率宮」、「兜率内院」があった。阿弥陀信仰を鼓舞した源信も『往生要集』においては、兜率往生を否定していない。そして、鎌倉時代以降、兜率天曼荼羅の作例が現存しており、貞慶(1155~1213)、明恵(1173~1232)、宗性(1202~1292)等の周辺で弥勒上生信仰が高まった。一方で阿弥陀浄土信仰の高まりもあったなか、南都では法相宗祖としての弥勒の重視、玄奘三蔵の兜率往生、持戒に対する意識等の特徴を挙げることができる。

 これらの僧侶のなか、貞慶が信仰した浄土とその絵画には、釈迦如来の霊鷲山浄土を表す「法華曼荼羅」(鎌倉時代、海住山寺所蔵)、弥勒菩薩の兜率天を表す「兜率天曼荼羅」(鎌倉時代、興聖寺所蔵)、阿弥陀如来の極楽浄土を表す「阿弥陀浄土曼荼羅」(鎌倉時代、海住山寺所蔵)、観音菩薩の補陀落山浄土を表す「補陀落山浄土図」(室町時代、海住山寺所蔵)があった。また、貞慶は『発心講式』、『観音講式』、『法華講式』において、各浄土について言及しており、「安養知足」観についても読み解くことができる。

【議論の概要】

 弥勒経典の上生経が大乗経典であるか否かについては、上生経が観仏経類に分類されることより、大乗経典と解することは可能である。しかし、観仏経類については未解明な部分が非常に多く、さらには上生経のなかに部派的な要素も併せ持つことより、未だ決定的な判断がなされていない現状である。

 また、弥勒菩薩と弥勒仏への信仰の差異については、そもそも7世紀頃に菩薩、如来、兜率天、閻浮提等の優位性について盛んに議論され、4世紀以前の譬喩経類には釈尊信仰と弥勒信仰の優位性を問題とするも、すくいの同位性をもってこれらの差異については不問とする説話が存在している。このような説話はスリランカへの伝播も確認されていることより、広く議論されていたことがわかる。しかし、弥勒における菩薩か仏かという点に限定したものは、同地域・同時代の史料からは確認することができず、ガンダーラやインドにおいては未解明な状況であり、今後の研究の進展が期待されている。

【文責】アジア仏教文化研究センター

DSC_7686.JPG

このページのトップへ戻る