研究活動

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2016年度 グループ2ユニットB 第2回ワークショップ

報告題目『歎異抄』の翻訳を通してみた親鸞思想―イスラーム学者の視点から―
開催日時2016年10月12日(水)10:45~12:15
場所龍谷大学大宮学舎北黌204
報告者アボルガセム・ジャーファリー(コム宗教大学専任講師)
ファシリテーター那須英勝(龍谷大学文学部教授)
参加者85人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【報告のポイント】

 ジャーファリー氏は,『歎異抄』をペルシャ語に訳したイランのイスラーム学者である。今回はその翻訳の経験を活かし,『歎異抄』に表現された親鸞思想に,世界宗教の諸思想との共通性を読み取る試みが行われた。

【報告の概要】

 ジャーファリー氏は報告の導入としてまず,その暴力性などにより近年とても悪名の高いイスラーム国(IS)の活動と,宗教としてのイスラームは,まったく別物であることについて,映像なども用いながら簡潔に説明した。その上で,イスラーム学者の視点から親鸞思想について検討する際の前提となる,イスラームと浄土仏教の比較考察を行った。

 イスラームの行(practice)のうち最も重要なのは,神の名を唱え,聞くことである。この点は,浄土真宗における念仏の位置づけと近い。また,イスラームのスーフィズムでは祈りの際に踊りがともなうことがあるが,日本にも念仏踊りのような同様の習俗がある。

 イスラームにおいて,神の定義とは,ありとあらゆる存在を創造することである。こうした意味での神は,仏教には存在しないとする議論は少なくない。しかし,イスラームの神学においては,神を無限の存在者とする解釈もあり,こうした定義からは,無限の光と慈悲を表す阿弥陀如来もまた,神と考えることが可能である。すなわち,正確な意味ではイスラームの神と仏教の阿弥陀如来とは異なるが,解釈学的なアプローチを採用すれば,両者を類似の概念として理解することもできるのである。

 神の名前の呼び方という観点から考えてみよう。イスラームでは,人が神の名を呼ぶ際の言語的な制約はなく,何語を用いても構わない。コーランでは,「神のために最も美しい名前がつけられている」とされており,人々が日常的に使っている言葉で神の名を呼べばそれでよい。浄土仏教でもこの点は共通しており,阿弥陀仏の呼称は,インドのサンスクリット語から,中国,日本へと展開する中で,その土地の言葉に応じて変化してきた。

 浄土仏教において仏の名前を呼ぶときに使われる「南無」という言葉は,サンスクリット語のナマス(namas)の音訳であり,もともと高位の存在への尊崇を意味する。一方,アラビア語での日々の祈りを表す「サラート(salat)」を,イラン人はペルシャ語の「ナマーズ(namaz)」という言葉で表現しているが,この「ナマーズ」と上記の「ナマス(南無)」とは,語源を同じくしている。すなわち,浄土真宗の信徒がふだん唱えている「南無阿弥陀仏」は,世界の他の祈りにも通じているのである。

 親鸞の思想もまた,イスラームをはじめとする世界宗教との共通性を有している。親鸞は,同時代の教義をめぐる論争の中に有益なものを見出せず,浄土仏教の根源に立ち戻ろうとした。その思想が表された『歎異抄』では,学問は人間の救済を保証せず,ただ他力と本願への信仰のみが,無条件の救済につながると論じられている。親鸞によれば,本願を信ずるものはすべて「悪人」であり,その悪人救済の思想は,修行や学問をする僧侶のみならず,家庭生活を送るすべての在家仏教徒が,等しく救われる道の発見であった。

 自らも「悪人」「愚か者」の一人として,浄土往生の道を進んでいるとした親鸞の教えは,イスラームの偉大な神秘主義者である,ガザーリーの懐疑主義の精神と似たものを持っている。また,本願において大事なのは阿弥陀仏の称名のみであり,既存の寺院での儀礼などは必要ないとした親鸞の主張は,カトリック教会の階級制度を否定し,聖職者を介さない人間と神との直接的なつながりを説いたルターの信条とも近い。

 さらに,浄土真宗における自力と他力の教説に似た発想も,イスラームには存在する。「タワックル(Tawakkul)」という,神への信頼を意味する概念がそれである。すなわち,イランの有名な詩人であるハフィーズが,「精神(こころ)の旅人は,たとえ何百という能力を持っていようとも,神のみを信頼すべきである」と言うように,イスラームでは,人間が救済に至るために必要なのは,個人の自助努力ではなく,神への信頼であるとされている。親鸞が空の教えの対極にある自力を否定し,阿弥陀如来の慈悲心を頼りにしたように,イスラームの人々も,あたかも赤ん坊が母親に依存するかのように,神の力に頼るのである。

【議論の概要】

 ジャーファリー氏の報告に対し,会場から,理論的には仏教には仏教に固有の教えや解釈があると思うが,「救い」という点においては,仏教とイスラームに同一性があると考えられるのか,との質問があった。これに対して氏は,仏教にせよイスラームにせよ,諸宗教には教えの根拠となる聖典があり,そこに記述された宗教的言語や,それに対する哲学的な議論は異質のものだが,しかし,それぞれの教えが導く宗教体験には,一定の共通性があると指摘した。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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