研究活動

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2016年度 グループ1ユニットB 文化講演会 世界認識と「アジア」(第1回)

報告題目『混一彊理歴代国都之図』から見た「世界」
開催日時2016年11月19日(土)13:30~15:00
場所龍谷大学深草学舎和顔館地下1階B201
報告者村岡 倫(龍谷大学文学部教授)
参加者21人

【報告のポイント】

 龍谷大学図書館所蔵の『混一疆理歴代国都之図』(以下、『混一図』と略。特に龍谷大学所蔵の図は「龍谷図」と称する)は、15世紀に作製された世界最古の世界地図の1つである。この図は仏教的な世界観を反映した仏教系世界図が現実世界の地図に移行する最初期の地図という側面もあり、記載される地名・民族名・宗教に関わる名称・その他の情報の解析研究から、本図が作製された同時代の歴史事象、そして当時の人々の世界認識を明らかにすることができる。

【報告の概要】

 『混一図』は中国王朝の明の年号で言えば1402(建文4)年に李氏朝鮮で作製され、現存最古の世界地図の1つであり、初版が作製されて以降、新たな地理情報を取り入れて修正が加えられ、現在ではいくつかの同種の図(同名あるいは『大明国図』の名のもの)が知られている。『混一図』に記載されている地名の多くは、13、14世紀のモンゴル帝国・元朝時代のものであり、「混一疆理」とは「混然一体となった領域」を意味し、正しくモンゴル帝国時代の「世界」の状況を示している。また、「歴代国都」とは元代に至るまでの歴代王朝の国都を記していることによる。『混一図』はモンゴル帝国という時代を反映し、時間や空間を超える多様で膨大な情報が盛り込まれており、ユーラシア世界の歴史を知るための巨大な「歴史文献」と言える。

 「龍谷図」は記載されている朝鮮半島の地名から、1481~1485年の改訂版であることが指摘され、絹地で縦151cm、横163cmである。そもそも西本願寺の旧蔵にかかり、後に龍谷大学に寄贈されたが、16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮半島に派兵した、いわゆる「文禄の役」の後に西本願寺に賜与されたという説や、明治に入ってから大谷光瑞師が朝鮮で購入したという説もあるが詳細は未だ明らかではない。光瑞師と親交のあった京都帝国大学地理学研究室の小川琢治教授(東洋史学者の貝塚茂樹・物理学者の湯川秀樹・中国語学者の小川環樹ら兄弟の父)が、1910年に「龍谷図」から彩色模写図を作製(現在、京都大学文学部地理学教室に所蔵)したという記録より、この時点ではすでに西本願寺にあったということは明らかであるが、これらの経緯については今後の研究課題の1つとされている。

 『混一図』をいち早く有名にしたのは「邪馬台国論争」であり、主な説に「北九州説」と「畿内説」がある。「畿内説」で最もネックになったのは、中国三国時代の魏からの使節団の旅程として、朝鮮半島から九州上陸後、「南へ一月行く」という「魏志倭人伝」の一句である。『混一図』には日本列島が九州を北にして全体が南に垂れ下がる奇妙な形で描かれ、古代中国人は日本列島の姿をこのように認識していたということに基づき、「畿内説」提唱者は「南へ」というのは実は「東へ」であり、やはり邪馬台国は畿内にあったのだと主張するのであり、『混一図』は邪馬台国の位置を特定する上で重要な根拠と見なされている。

 『混一図』に描かれる海岸線は、当時の世界認識を表すものである。明代、第3代永楽帝(1402~1424年)に始まる鄭和の南海大遠征は、1434年まで7回にわたって東アフリカまで到達している。この頃、中国はアフリカまでの航路を把握していたということを示すものと言われているが、実際は既にその前のモンゴル帝国時代に完成していたユーラシア大交易圏の航路をたどったものに過ぎないと考えることができる。16世紀頃には西欧諸国が航路を開拓したと称し、次々とアジアへ進出し始め、所謂、地理上の発見ブームである。しかし、その航路はその時初めて西欧諸国が開拓したものではなく、アジアの人々が古くから使って交流を進めていた海の道を利用したに過ぎず、『混一図』が描く海岸線はそのことを明確に物語っているのである。

 人類史上、自らが暮らす「世界」というもの認識しようとする試みが、仏教から生まれ、僧侶たちによって様々な仏教的世界観を表す世界図(「須弥山世界観」、あるいは「五天竺図」などは有名)が生み出されてきた。それらが『混一図』のような現実の世界像認識への道が開かれるきっかけとなったのであり、そのような視点から『混一図』と仏教系世界図の比較検討を進めることが今後の重要な課題である。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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