研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第9回学術講演会

報告題目高田本『教行証文類』の書誌学
開催日時2016年12月5日(月)15:00~16:30
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
報告者清水谷正尊(真宗高田派鑑学、高田短期大学非常勤講師)
コメンテーター杉岡孝紀(龍谷大学農学部教授)
参加者24人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【報告のポイント】

 高田本『教行証文類』の書誌学研究の歴史をたどりながら、その書写者について詳しい説明がなされた。そして、検討の余地がある部分等も含め、最近の研究状況が報告された。

【報告の概要】

 真宗高田派では親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』を『教行証』もしくは『教行証文類』と呼び、『教行信証』と呼ぶことはない。これは高田派の碩学である生桑完明氏が、聖人面授の弟子である真仏上人や顕智上人が『教行証』と呼んだこと、そして、そもそも具名に「信」の字がないことを理由として強く主張したことによって定着した。また、「高田本」、「専修寺本」という通称も用いられている。

 「高田本」については、大正9(1920)年に辻善之助氏が『親鸞聖人筆跡之研究』において、聖人の自筆本であると判断している。当時、東大教授による写真を多数利用しての筆跡鑑定ということで、科学的・合理的であると高い評価を受け、聖人の実在をも証明することとなった。高田本を聖人自筆とする辻氏の論説に対して吉沢義則氏は肯定するも(「本願寺本教行信証点注の筆者について」、大正13(1924)年)、高田派内部からは疑問の声が上がるようになり、鈴木宗忠氏(「教行信証の真跡本に就いて」、昭和13(1938)年)や藤田海龍氏(「教行信証の真跡本に就いて」、昭和19(1944)年)によってその否定説が出された。そして、生桑完明氏が「高田本」の「化身土文類」には現存しない奥書の存在について発表し(「高田伝来の教行証真本を尋ねて」、昭和23(1948)年)、そこには「筆師専信之」とあったことより、聖人自筆ではないことを明らかとした。その後、灘本愛慈氏が「高田本」は「板東本」をそのまま書写したというよりかは、何かを参照して書写したか、或は「板東本」を書写した本を書写したのではないかと推察し(「教行信証の三本校異における所見」、昭和42(1967)年)、専信書写説に疑義が向けられた。これに対して重見一行氏は昭和49(1974)年刊行の写真版を参考にし、建長7(1255)年に専信が「板東本」を書写した後、これをもう一度転写したものが現存する「高田本」であるとする説を出した(「専修寺本教行信証に関する書誌学的考察」、昭和51(1976)年)。そして、この重見氏の説を受け、平松令三氏が「高田本」の筆者は真仏であるとし(「高田本『顕浄土真実教行証文類』解説」、昭和61(1986)年)、「高田本」は専信が「板東本」を書写し、その書写本をさらに真仏が書写したものと、その由来に関わる学説は落ち着いている。

 この現存しない失われた奥書については、「宝暦十二壬午年六月三日御目録」と題された『専修寺宝物曝涼記録』にある。曝涼とは虫干しのことであり、同時に行われた調査において、「化身土文類」末尾には「以彼六巻草本写書之、筆師専信之、建長七歳乙卯六月廿二日午時畢書之」という奥書があると記録され、宝暦12(1762)年6月までは「化身土文類」末尾にはこの奥書が存在していたということである。現存の「高田本」の「化身土文類」の最後は白紙1枚であり、袋綴にした裏側が切り取られた格好であり、この部分に奥書があったということである。

 そもそも、この書写者とされる「専信」とは「専信房専海」のことであり、『親鸞聖人門侶交名牒』には真仏附弟の1人として「遠江国住、上人面授」と註記されている。建長8(1256)年5月28日付の聖人自筆の御消息には「専信房、京ちかくなられて候こそ、たのもしうおほえ候へ」とあり、専信房が京都に近くなったから頼もしいと、わざわざ聖人が述べている。この御消息が書かれる少し前に関東から遠江国の鶴見、今の静岡県浜松市南区鶴見町に移ったと考えられ、『三河念仏相承日記』には同年10月13日に真仏、顕智らと共に上洛の途中、三河矢作の薬師堂で念仏を弘通したと伝えられている。現在の岡崎市にある願照寺は専信を開基とし、聖人83歳の寿像である「安城の御影(建長7(1255)年)」が元々在った寺である。聖人が師の法然聖人より『選択本願念仏集』の書写と絵像の図画を許されたことと同じく、『教行証文類』と絵像を受け取っていることからも、聖人からの信頼が非常に厚かったことがわかる。

 専信が「板東本」を書写し、その書写本をさらに真仏が書写したものが「高田本」と現在では見なされている。しかし、真仏の筆跡については2種類あると言われており、この由来については未だ検討の余地があると考えられている。もし真仏の筆と断定されれば、「高田本」は聖人が生きているときに書写された唯一の写本ということが決定的となり、その史料的価値はさらに高いものとなる。しかし、「西本願寺本」は「高田本」のように間に写本を挟まず、「板東本」をそのまま書写したものだと言われており、「西本願寺本」だけが有する価値があり、「板東本」には絶対なる価値があることより、3本それぞれが独自の価値を有することは揺るがないことであり、今後のさらなる研究の進展が望まれると締め括られた。

【議論の概要】

 「高田本」の「化身土文類」の奥書の切り取りに対する研究については、単純に考えれば聖人自筆本にしたいという意図が推察されるが、実際のところは未解明のままである。また、『教行信証』を実際に書写した状況については、聖人との間柄からして専信は頻繁に京都に趣いていたことが推察されるとし、これらの他にも活発な議論が交わされた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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