研究活動

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2016年度 グループ1ユニットB 文化講演会 世界認識と「アジア」(第2回)

報告題目南方熊楠と「アジア」
開催日時2016年12月17日(土)13:30~15:00
場所龍谷大学深草学舎和顔館地下1階B201
報告者松居竜五(龍谷大学国際学部教授)
参加者142人

【報告のポイント】

 19世紀末のロンドンで、独自の人類学・民俗学構想を打ち立てようとしていた南方熊楠が、西洋からの一元的な視線に対抗して提示した「アジア」像を明らかにした。

【報告の概要】

 熊楠は1868年の明治維新の前年1867年の生まれであり、前半生は明治時代と重なる。江戸幕府から明治新政府へと体制が変わり、西洋の文化・学問・技術を取り入れて急速に日本の近代化・西洋化が進んだ時代の転換期である。熊楠が幼少の頃に得ていた知識は東アジアの伝統的なものであり、5歳頃に初めて読んだ本は江戸時代の植物図鑑と記録が残っている。この他に江戸時代の百科図鑑の『訓蒙図彙』や、中国の明時代の植物図鑑の『本草綱目』等があり、本の中に解説を書き込み、写本の作成を頻繁に行っていたようである。たくさんの本のなか、熊楠は特に『和漢三才図会』という中国と日本の百科図鑑が最もお気に入りだったようで、12~15歳の間に写本を作成している。このように熊楠は東アジアの伝統的な知識に基づいた教養を受け入れながら、両国で発達してきた物の見方を吸収していくのである。

 東京大学予備門に入ると、今度は授業についていくためにかなり集中的に英語、ドイツ語を勉強することとなる。熊楠や同級生の夏目漱石や正岡子規は、最初は東アジアの知識を漢文で受け入れ、後に西洋の知識を英語やドイツ語等で受け入れていった。両文化圏の知識を教わり、しかもそれが中途半端ではなく、極端のない考え方に切り替えることに迫られたわけであり、この時代を生きた大きな意義がここにあると考えられる。

 海外諸国への渡航のなか、特にロンドンに対しては当時の学問の中心地として、熊楠は強く意識していたようである。その大英博物館の図書館を拠点として研究生活を送りながら、『ネイチャー』とか『ノーツ・アンド・クエリーズ』というような雑誌にたくさんの論文を発表して評価されている。特に最初にかいた「東洋の星座」という論文は、その後新聞でも取り上げられるほどの反響があった。

 熊楠は大英博物館へ足繁く通うなか、『ロンドン抜書』というノートを作成し、貴重な蔵書をいくつも書き写している。全部で52冊あり、文字ばかりではなくスケッチも割と多く、英語、ドイツ語、フランス語等に加え、日本語や中国語を合わせると9ヵ国語によってこの本が作成されており、熊楠の語学の堪能ぶりがよくわかる。このノートのなかには様々な国の地理や旅行記も書き写されており、これら民俗学的な資料をもって、人類学の資料として使おうとしていたようである。19世紀は世界中の様々な人種が持つ風習や伝承というものに興味が持ち始められ、特に熊楠が生きた後半期は人類学が盛んになってきた時代である。そもそもこの人類学とは、ヨーロッパから見た世界というものが基本であり、見られる対象であるアジア人の熊楠が、ロンドンの大英博物館でこのことを研究しているところに、非常に面白さを感じるのである。ヨーロッパが世界を認識していった過程の再現、これが熊楠の目的であった。

 その後、資金難やイギリス社会の情勢悪化にともない、帰国を余儀なくされた熊楠は、故郷の和歌山に戻り、那智の森に足繁く通うようになる。そして、土宜法龍とのやりとりにおいて、自身の世界観を「南方曼荼羅」等と表してまとめている。また、熊楠は熱心にエコロジーという観念を提唱し、神社合祀反対運動にとりくみ、自然保護活動を精力的に行った。

 熊楠は子供のときに得た東アジアの伝統的な知識を、生涯にわたって自身の学問の基礎とし、様々な知見を得ながら、英語論文の発表や、宗教者とのやりとりのなかで独自の世界観を構築していったのである。これは当時の日本全体の学問の流れとは、全く異なる在り方であった。日本あるいは東アジアにおいては東アジアまでで全てが完結し、次は西洋の文化・学問・技術を取り入れるなかで、全てを塗り替えようとした時代であったが、熊楠は日本全体の知識の流れを重んじ、自身の子供の頃からの関心を晩年まで持ち続けたのである。西洋の学問が絶対的という時代に、東洋に科学があるということや、あるいはアジアから見た別の世界があり得るということを主張したのであり、ヨーロッパとアジアの主点から複眼的に物事を見ることができるということを示したという意味で、今の時代においても非常に興味深いものであり、むしろ、今の方がよく熊楠の言動を理解できるのではないだろうか。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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