研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第11回学術講演会

報告題目親鸞と『往生要集』
開催日時2017年1月27日(金)16:45~18:15
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
報告者高田文英(龍谷大学文学部准教授)
コメンテーター玉木興慈(龍谷大学短期大学部教授)
参加者24人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【報告のポイント】

 親鸞は『教行信証』をはじめとした様々な著述のなか、自身が真宗の祖師と仰ぐ七祖の論釈を縦横に用いているが、なかでも源信の『往生要集』の依用においては、法然の『往生要集』観の影響が色濃く見られる。しかし、一方で法然が『選択集』において異類の助業を位置づける上に用いる「総結要行釈」の文などは、親鸞は一切用いておらず、両者の『往生要集』観に相違を認めることができる。法然の依用との比較を1つの視座としながら、親鸞の『往生要集』観の特徴について報告がなされた。

【報告の概要】

 法然、親鸞の上から『往生要集』の主要な文をいくつか紹介するなか、その1つとして大文第四「正修念仏」の「観察門」冒頭の文を挙げる。これに基づけば、『往生要集』では様々な念仏が提示され、そこには「意楽不同」の故にという源信の基本的対場があり、その力点は観念の念仏、そして、臨終の正念に置かれていると解することができるとする。ただし、源信が様々な念仏を通して必須と位置づける「心念常存」という点に、本書の念仏思想の特徴が見られ、そこに摂取不捨の光明に摂め取られて必ず往生するという思いを持つことが大切であるという、他力的な内容があるとし、観念の念仏においても、仏の光明を観ずることが強調されることも、こうした源信の念仏理解との関わりにおいて理解されると主張した。

 法然の『往生要集』に対する評価としては、「善導との異同」という点に着目する。善導と源信の念仏を同様に解する場合と、相異すると解する場合もあり、評価が文献によって分かれ、不統一な状況を指摘する。この点に関しては、法然にとって善導と源信の異同については重要ではなかったとし、その理由を善導と源信の念仏が1つであるということが法然にとって大事であれば、著述において主張が一貫するはずであるとした。

 では、『往生要集』の根本的意義については、『法然上人伝記(醍醐本)』の文を挙げ、法然がまだ善導の文に出遇う前に、出離の道に悩んでいる時に『往生要集』にその道を求めたことが伝えられている。法然は『往生要集』を先達として、道綽、特に善導の教えに導かれたと自ら語っている。この意味付けというものが、法然にとって『往生要集』の最も重要な意義であったと解することができる。つまり、『往生要集』は法然にとって、善導へと導く書であり、したがって、法然が善導の教えに出会い、浄土宗を立てた後に振り返って『往生要集』をどう見ていくかというのは、また別の話になるということである。

 親鸞の『往生要集』からの引用の傾向については法然からの影響が大きく、このことは「正信偈」の源信章より一目瞭然であり、「序分」「正修念仏」「念仏証拠」「問答料簡」からの依用は、全て法然の『往生要集』観の継承であると言い得る。しかし、法然が用いた「総結要行釈」については、親鸞が一切用いないという相異点もある。この釈は法然が諸行の位置づけにおいて用いており、親鸞との関心の相異としてうかがい知るところである。諸行や助業の位置づけについては、少なくとも『教行信証』の中では述べておらず、関心の低さを物語っていると解することができる。

 また、『教行信証』において大行・大信の徳を語る上で、『往生要集』所引の『心地観経』や『華厳経』「入法界品」の文を、親鸞の独自の文脈に基づいての引用であることは、その特徴の1つとして挙げることができる。そして、親鸞は『往生要集』の肝要を「勧信誡疑」とし、和讃には「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」と、他力の信のことが説かれている。法然とは異なる他力の弘願の法門の上から見出していく、独自の『往生要集』観を認めることができる。

【議論の概要】

 『教行信証』「化巻」における『往生要集』所引の『菩薩処胎経』の引用に対する高田氏の指摘に基づき、原典の意に引っ張られてしまっている傾向があることと、『教行信証』の文脈に沿ってその引文を読んでいくことの必要性が、玉木氏より指摘された。その他、幅広い視野より源信、法然、親鸞の関係性について活発な質疑応答が行われ、理解を深めることができた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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