研究活動

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2016年度 グループ1ユニットB 第4回ワークショップ

報告題目中西牛郎と其の時代―明治中葉までを中心に―
開催日時2017年1月24日(火)15:00~18:00
場所龍谷大学大宮学舎清風館3階共同研究室1・2
報告者星野靖二(國學院大學研究開発推進機構准教授)
参加者16人

【報告のポイント】

 中西牛郎(うしろう)は,明治中期に仏教改良論を唱えて仏教界に影響を与えたことが近年指摘されてきているが,しかし中西についての研究は断片的なものが多く,その全体像はいまだ不透明である。本報告で星野氏は,中西の生涯を跡づけることで中西研究の全体的な見通しを示すとともに,その仏教改良論について検討した。

【報告の概要】

 中西は,1859年に熊本藩の漢学者の長男として生まれ,その基礎的な教養も漢学や儒教にあった。早くから英学をも学び,同志社ではキリスト教についての知識も得ている。仏教には同郷の八淵蟠龍らとの交流を通して関わりを持つようになったが,しかし専門的・体系的に仏教を学んだ形跡はなく,宗学や教義面についての知識は深くなかったように見える。

 熊本では,国権主義団体である紫溟会の関係者らと交流するようになり(民権派の徳富蘇峰らとは対抗関係にあった),この熊本の人脈は晩年に至るまで続いた。この時期,紫溟会の機関誌の主筆となる一方で,教育活動にも従事し,1881年に私塾である神水義塾を設立して英学や欧米の「新しき仏教に対する研究の様相」などを教え,また済々黌でも教鞭を執った。一方,1884年頃に1年間ほど滞在したと思われる同志社では,神学書の翻訳を行うなどしたという。

 1887年に,中西が熊本で書いた論説「宗教及道義」が本願寺派の『教学論集』などに転載され,さらに『宗教革命論』の草稿が赤松連城に高く評価されるなど,中西は徐々に本願寺派に接近していき,法主の大谷光尊に引き合わされるに至った。1889年6月から翌年1月まで西本願寺から資金援助を受けて米国に渡り,帰国後には京都の本願寺大学林文学寮に教頭兼教授として招かれた。また1890年に創刊された雑誌『経世博議』の主筆となり,他方で同年に真宗関係者を中心にして発足した九州仏教団や九州仏教倶楽部といった団体にも関わり,機関誌の主要な執筆者となった。

 後述するようにこの時期の中西の仏教改良論は大きな影響力を持つことになるが,同時に教団内において保守的な立場から中西を批判する声も上がるようになる。その延長において,1892年に文学寮内で寮長(藤島了穏)派と教頭(中西)派の対立が激化し,その結果として教団主導の人事刷新が断行され,教員は全員解職となる。これは実質的に中西の追放であり,中西と西本願寺との関係もこれでほぼ断たれることになる。その後中西は,大阪で新聞記者をしていた時期があり,また1893年頃にはユニテリアンに関わるようになって,その機関誌『宗教』の主筆を務めるなどしたが,それも長続きすることはなかった。以後,『太陽』に寄稿したり,あるいは大谷派の清沢満之らによる改革運動(白河党)に対して批判的な言論を展開するなどしたりしていたことがわかっている。

 1899年から,天理教の依頼により天理教教典の編纂に従事し,さらに教祖伝の執筆や,天理教校での教職も担った。1903年には台湾に渡って税関長官房嘱託などを務め,その後1914年に台湾同化会が設立された際に,『同化論』を著して理論家として関与した。帰国後,扶桑教にも出入りしていたようだが,晩年には再び天理教に関わるようになり,最後の著作となる『神の實現としての天理教』(1929年)を刊行した翌1930年10月18日に72歳で死去した。

 中西はその「新仏教」の議論によって明治中期の仏教界で注目を集めたが,それはキリスト教への対抗を念頭に置いて,仏教の宗教としての潜在的優越性を述べると同時に,現状の「旧仏教」を脱して本来的な仏教である「新仏教」になるべきであるとして仏教の改良を訴えるというものであった。すなわち,中西は当時の西洋哲学のあり方を参照しながら,一神教から汎神論へと進化しつつある思想的な潮流があるとし,それ故一神教であるキリスト教に対して汎神論である仏教は優越するという進化論的な図式において仏教の弁証を行いつつ,同時に現状の仏教に対してはそのように進化した仏教,すなわち「新仏教」にならなくてはならないと主張したのである。

 その「新仏教」の議論において,その要件として例えば「信仰」に依らなくてはならないなどとし,この点について中西は当時「仏教界の双璧」と評された井上円了を念頭に置いて「哲理」のみから仏教を論じることを批判していた。後代から見ればそこで論じられている「信仰」の内実には曖昧な点があり,また実存的な側面が弱いようにも見えるが,しかし先駆的な意義があったということができるだろう。

 他方で,その議論において「新仏教」の具体的な教義や,実践的な教団改革の構想が提示されていたわけではなく,その主張は理念的な次元に留まり,現実性を欠いていた。翻ってみれば中西は教団内に権力基盤を持たず,また組織を動かす能力にも欠けており,その仏教改良論を貫徹することはできなかったのである。

 逆に,そのような中西の議論がなぜ当時影響力を持ったのかを考えるならば,キリスト教に抗して社会的な位置付けを弁証する必要に迫られていた仏教界,とりわけ既存の仏教に対して満足していなかった青年仏教徒たちに対して,キリスト教の神学や西洋哲学の展開などを参照しながら宗教としての仏教を論じるという新しい視座を示したことによる。その思想は,反省会から経緯会を経て新仏教徒同志会につながっていくような,在家を中心とした通仏教的な運動の潮流に流れ込んでいくことになるのである。

【議論の概要】

 星野氏の報告に対し,中西において信仰と道義(理性・学問)の関係はいかに整理されていたのか,また彼の宗教家としての内実はいかなるものであり,さらに国家との関わりや,植民地(台湾)への関与はどうであったのかなどについて,質問がなされた。これらに対し星野氏は,中西における信仰は理性の枠を踏み越えるものではなかったように思うとし,同志社などで学んだと思われるリベラルなキリスト教神学についての理解がそこに反映されている可能性があること,また中西は自身の宗教体験については語らないが,超越的なものに対する関心は一貫して持っており,「自然教」や「啓示教」といったキリスト教神学を援用した理論枠組みのもと仏教を説明するその議論は,日本に宗教学が導入される以前にはきわめて新鮮であったこと,「国家と宗教」の関係(連携)という発想は中西が一貫して有していたものであり,彼の言動を通して当時の政治や宗教の実態について考えることが可能であること,また中西が台湾時代に著した『同化論』の検討によって,彼の植民地や他民族に対する認識が明らかになってくるのではないかという将来的な見込みなどを述べた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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