研究活動

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2016年度 グループ1ユニットA 第12回学術講演会

報告題目玄奘三蔵の説話と美術
開催日時2017年3月4日(土)13:00~17:00
場所龍谷大学大宮学舎清和館3楷ホール
参加者95人

■報告者・報告題目:

 師 茂樹(花園大学文学部教授)

  「ナラティブとしての玄奘伝:日本古写経にみる玄奘伝の変遷」

 谷口耕生(奈良国立博物館教育室長)

  「中世日本における玄奘三蔵像の受容と展開」

 大島幸代(香雪美術館学芸員)

  「玄奘三蔵と護法神」

【報告のポイント】

 広く東アジアに知られている玄奘三蔵像について、三者三様の知見を踏まえながら最新の研究成果が報告された。

【報告の概要】

師 茂樹(花園大学文学部教授)

 「ナラティブとしての玄奘伝:日本古写経にみる玄奘伝の変遷」

 近年、国際仏教学大学院大学を中心として、日本に残された古い写経(「日本古写経」と呼ばれる)の研究が大きく進展している。このことより、それらのなかの金剛寺一切経、興聖寺一切経に『続高僧伝』が含まれ、「玄奘伝」があったということが判明した。その記述とこれまで知られてきた『続高僧伝』や『大唐大慈恩寺三藏法師傳』所説の「玄奘伝」との間に大きく相異する点があり、批判的な見直しが求められている。

 順番としては古写経の「玄奘伝」が先ず成立し、これに基づいて『慈恩伝』や『行状』の「玄奘伝」が書かれた。そして、これらに基づいて『続高僧伝』が書き直されることとなり、これが今日においてよく目にする「玄奘伝」である。

 この変遷において、師氏が最も注目する点は内容の順序の相異であり、特に印度到着から出国までの内容・順序である。印度に着いて最初に向かったのはナーランダー寺院であり、ここまでは両本に大きな差異はない。その後、現行の「玄奘伝」においてはシーラバドラから瑜伽師地論を学び、中眼派、順世外道、上座部の僧侶等との論争のなかで学んだ唯識論を説き、帰国の途につくという記載内容である。一方、古写経の「玄奘伝」においてはナーランダー寺院の学僧との論争に勝利して称讃され、その後もいくつかの論争の後に、やっとシーラバドラから唯識を学ぶことが記されている。そして、印度をまわって経典を集め、帰国の途につくという流れである。

 シーラバドラから学ぶタイミングが大きく異なり、現行本においてはシーラバドラから学んだ唯識論をもって、幾多の論争に勝利してきたと解することができるが、古写経においては中国で学んだ仏教をもって、幾多の論争に勝利してきたことを明示する意図が表されているようである。

 当初、作られた玄奘三蔵像は、もともと自国において大活躍していた人が、他国においても大活躍したという様子を描いたものである。しかし、他国への憧れや期待をもって渡り、その地で体得した力をもって大活躍したという様子に変えられたということである。伝記の転写過程において、そのような変遷を認めることができる「玄奘伝」である。

谷口耕生(奈良国立博物館教育室長)

 「中世日本における玄奘三蔵像の受容と展開」

 国宝に指定されている「玄奘三蔵絵」は玄奘三蔵の一生を描いた全12巻の絵巻で、印度や中国に行ったことのない中世鎌倉期の日本画家が、玄奘を通じて思い描いたそのイメージや、あるいは経典を翻訳した玄奘に対する憧れ等が凝縮されたものと言い得る。もともとは奈良興福寺大乗院に所蔵され、絵の様式より宮廷絵所預高階隆兼が成立に関わったとする説が有力である。

 『慈恩伝』に基づいて玄奘の生涯を表した祖師絵伝であり、詞書もその記述を踏襲しているが、そのまま全てを引用せず、他の文献からの引用をもって増補する部分もある。また、『慈恩伝』10巻のなか、前半5巻に生い立ち~天竺求法と帰国、後半5巻に長安における訳経事業~入滅と、均等に分けられている。しかし、「玄奘三蔵絵」12巻においては、巻1~巻9に生い立ち~天竺求法、巻10~巻12に長安における訳経事業~入滅と、不均等な構成である。巻3第4段~巻6第5段はほぼ3巻分の紙数を用い、玄奘が各地の聖地を巡礼する様子が描かれ、絵巻の最大の見せ場である。仏教徒であれば誰もが憧れる聖地巡礼の様子を、美しい風景描写をもって表現することにより、玄奘が実際に天竺の地を踏んだ祖師であることを強く認識させ、編纂者の制作意図が随所に表れていると考えることができる。

 室町時代に「玄奘三蔵絵」が天皇や公家の請いにより、宮中に運ばれて披見されており、その様子が当時の日記類に記録されている。それらによると、「玄奘三蔵絵」はもともと菩提山僧正信円が発願したものであり、当初は興福寺の院家である一乗院の良円僧正に寄進された。しかし、これに対して大乗院の実尊僧正が法相宗の正当な法脈であることを主張したことにより、信円は実尊に渡すこととなり、その後には代々の大乗院門跡に相伝されていく。大乗院門主尋尊は前門主より門跡を引き継いだ時、「玄奘三蔵絵」を「法相万陀羅一幅」と共に渡されたとする記述より、この絵巻が法相宗の血脈相承を視覚化した曼陀羅と同等に位置づけられていたことがわかる。

大島幸代(香雪美術館学芸員)

 「玄奘三蔵と護法神」

 玄奘三蔵と護法神については、十六善神図のなかで深沙大将と左右対称で登場するものがよく知られ、この形態は鎌倉時代以降に定着してきたと今日では考えられている。この度は講演会においては、高僧と護法神との関係にまで視野を広げて報告を進められた。

 平成19(2007)年に奈良国立博物館において開催された特別展「神仏習合」の図録に収録されている、谷口耕生氏の「神仏習合美術に関する覚書」と稲本泰生氏の「神仏習合の論理と造像―インド・中国から日本へ」の両論に基づきながら、大島氏は「護法神」について定義していく。日本への仏教公伝を伝える『日本書紀』によれば、仏を外国の神と呼んだとあり、伝来当初から神々への信仰と密接に関連づけられて受け入れられていたことがわかる。ことに仏像を神の姿と見る観念は、神仏習合が本格的に進展していく奈良時代以降も基本的に受け継がれており、そもそも大陸において神仏習合の洗礼を受けたものが、そのまま日本に伝わったともみなすことができる。神仏習合の展開のなかで一貫して見られる日本の神々の位置づけとしては、神々を仏教の天部と同じ位相で捉えること、神は誓約の場に勧請されてそれを監視する役割を担うことの2点が挙げられる。

 仏教における天部の諸尊とは印度の在地の神々が取り込まれたものである。これを継承して中国においては道教の神々のことと解し、日本の在地の神々は神仏習合という現象として表れており、天部のなかに含まれていくこととなる。仏教の外に存在する各地域の神々を天部と同種の存在と認めてそれらを包み込んでいくのであり、このような動きが東アジアにおいては見られる。この仏教における神々、天部の理解を踏まえて「護法神」を定義すれば、その出自のいかんを問うことなく、仏教の教えを奉ずる神の全てとすることができる。

 「玄奘」と「護法神」というキーワードにおいて、中国におけるこれらの関係性をさぐるなか、また新たな発見が期待されている。前述の十六善神図や、また羅漢図等においては、守護神を連れた高僧という構図がよく知られ、これらと玄奘三蔵像との関係について研究を展開させていくこととなる。

【議論の概要】

 閉会時刻の関係上、質疑応答の時間を設けることができなかった。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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