研究活動

研究活動

2017年度 グループ1ユニットB 第1回セミナー

報告題目日本仏教アジア布教の諸問題
開催日時2017年7月31日(月)12:50~17:40
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
ファシリテーター林行夫(龍谷大学文学部教授)
参加者27人

■報告者・題目:

中西直樹(龍谷大学文学部教授)

「日本仏教によるアジア布教史概観」

大澤広嗣(文化庁文化部宗務課専門職)

「財団法人朝鮮仏教団の留学生派遣と宗教民族学者の金孝敬」

野世英水(龍谷大学文学部非常勤講師)

「真宗本願寺派関東別院の活動と終焉」

中西直樹

「戦前期日本仏教のシンガポール布教―昭和初期までの本願寺派の動向を中心に―」

※共催:龍谷大学仏教文化研究所,龍谷学会

【報告のポイント】

 戦前期における日本仏教の,アジアでの展開に関する検証と議論が行われた。はじめに同時期のアジア布教の概要についての報告があった後,朝鮮,中国東北部,シンガポールに関して,個別事例の検証がなされた。

【報告の概要】

 中西直樹氏は,戦前期の日本仏教によるアジア布教について,5つの段階に分けてその変遷の過程を説明した。5段階とは,(1)先行布教,(2)従軍布教,(3)占領地布教,(4)植民地布教,(5)皇民化布教である。

 (1)は,日本が海外に進出する際,これに先立ち僧侶らが現地で行った活動であり,スパイ活動の一種としての側面も持っていた。(2)は,日本軍人を対象とした布教や戦没者供養等であり,おもに教団内の有力な布教使たちがこれを担った。(3)は,占領地の現地民や僧侶を対象としたものであり,派遣された若手布教使らは,現地のブローカーと提携することで信者を獲得していった。占領地では,やがて各宗派間で現地の末寺の獲得競争が起こり,これを憂慮した政府は,現地寺院の末寺化を禁止するに至る。(4)は,植民地統治下の在留邦人を主要な対象とする活動だが,一方で現地の抵抗運動を封じるための社会事業等も実施された。(5)は,皇民化運動に連動した事業であり,僧侶による日本語教育や,神道の強要などが行われた。

 日本仏教によるアジア布教は,日本の植民地政策に応じるかたちで,おおむね上記の順番で推移していった。ただし,現地の植民地化に成功したか否かなどの事情により,地域差は少なくない。また,現地人に独自の活動が見られたことにも,注意を向けていく必要がある。

 大澤広嗣氏は,財団法人朝鮮仏教団の実態について検討するため,財団の留学生として日本に渡航した金孝敬(キムヒョギョン)の歩みを詳細に追跡した。朝鮮仏教団は,日本植民地下の朝鮮半島における,仏教の「復興」を目的として組織された。その事業の一環として,現地の仏教者の養成を行っており,金もこの事業の助成を受けて日本に留学した(大澤氏の調査によれば,日本留学生は金も含めて29人が確認されている)。ただし,金が受け入れ先となった浄土宗の僧籍を取得した形跡は確認できず,他の多くの留学生と同じく,学問への意欲からこの事業に応募したものと思われる。

 金の留学に際し保証人となったのは,窪川旭丈と佐藤稠松であった。窪川は,増上寺の執事長や仏教連合会の主事などを歴任した浄土宗僧侶であり,佐藤は『萬朝報』などで記者として働き,また朝鮮仏教団の東京支部長を務めた人物である。留学中,金は大正大学専門部仏教科を経て文学部宗教学科に籍を置き,卒業後は法然上人鑽仰会事務局などに勤務した。大学では矢吹慶輝に師事し,朝鮮半島の巫俗について研究した。卒業後も日本の学会に参加して研究活動を続けており,矢吹の『覚聖法然』の朝鮮語訳や,単著『支那精神と其の民族性』(序文は宇野円空)などの業績がある。朝鮮の日本支配からの解放前後には,現地に戻りソウル東国大学校教授に就任するも,朝鮮戦争の勃発後に北朝鮮に拉致され,消息不明となった。

 朝鮮仏教団の留学生派遣事業は,布教者の育成については成果が出ず,失敗に終わった。他方で,金のような研究者の育成には貢献しており,彼の宗教学・民族学・仏教学を横断する豊かな研究成果を,副産物として生んだ。

 野世英水氏は,中国東北部における日本仏教の展開について,特に大連に置かれた真宗本願寺派関東別院の活動を中心に検証した。日本仏教の各宗派は,日露戦争時に従軍布教師を派遣した頃から中国東北部に関与しており,その後も各地に寺院や布教所を開設していった。本願寺派では,1901年にハルピン別院を開いて以降,満州開教の教務所内で敗戦までに50を超える別院や出張所を設置しており,開教従事者の数も千名近くに上った。具体的な活動としては,婦人会や青年会の組織のほか,日曜学校や幼稚園,日本語学校の経営,さらには養蜂園の運営なども行われた。

 1904年の日露開戦を受けて開かれた関東別院では,当初,大谷尊由(明如の4男)を中心にして活動が進められた。院内での布教をはじめとして,現地の電話交換局や婦人医院での出張講話も行われ,大連倶楽部内には外国語教室や女子技芸学校が設立された。また,満州青年会ほかの教化団体が創立され,『満州教報』刊行などの出版事業も進められた。日中戦争の開戦後には,大規模の軍隊慰問が行われ,別院を中心に日華仏教連合会が結成された。一方で,軍人遺族のための母子寮の建設や,大連高等女学校の設立も見られた。

 敗戦後,諸事業の終了とともに,事後処理として膨大な量の書類の提出作業などが行われた。一連の作業を責任者として担ったのは,最後の輪番である宇野本空であった。宇野は,1946年に中国当局に抑留され,同年内に解放された数日後に,関東別院で死去した。

 中西氏は,日本仏教のシンガポール布教について,比較的活発であった本願寺派の動向を中心にして概観した。明治期のシンガポールにおける在留邦人は,その大半が「からゆきさん」と呼ばれた娼婦であり,日系コミュニティも彼女たちを管理する娼館経営者により支配されていた。そうしたなか,本願寺派では南方進出に向けた布教拠点を形成するため,1899年より同地への布教を開始した。最初の布教員として任命された佐々木千重は,現地での布教活動とともに,娼婦たちの生活改善にも努めた。しかし,彼も内心では「貧乏くじ」を引いたと考えており,大谷光瑞が同地に立ち寄った際には,恨み言を漏らしたりもしていた。

 いずれにせよ,こうした佐々木らの尽力は報われることなく,布教開始から数年ほどで本願寺派は当地から手を引くこととなった。その後,日本人経営によるゴム栽培事業が発展していき,大正期には日系貿易商社が次々に進出していったのを受け,本願寺派や日蓮宗によって,在留邦人への布教活動が再開される。大谷光瑞も,法主引退後に同地でのゴム農園経営に着手した。だが,ゴム価格の下落や第一次世界大戦後の不況のため,活動はまたもや停滞していく。第二次世界大戦中には,日本軍がシンガポールを征圧し,軍部の支援下で本願寺派の別院が開設されるも,戦後には布教活動が完全に消滅。明治半ばに設置された日本人共同墓地だけが残った。東アジアや北米などとは異なり,安定的な日系コミュニティの形成が進まなかった同地では,総じて布教の成果も上がらなかったと言える。

【議論の概要】

 中西氏の一つ目の報告については,5段階説の単線的な理解や,用いられる概念の妥当性についての質問があった。これに対しては,植民地政策との連動性や,布教形態の変遷を考慮すればこうした理解には一定の妥当性があり,ただしこの段階整理はあくまでも理念型で,地域ごとに例外的なケースも少なくないとの回答がなされた。氏の二つ目の報告については,娼婦という特殊な立場の人々への布教活動を支える,独自の論理などはあったのかなどが問われた。

 大澤氏の報告については,金とは異なり僧籍を取得した留学生はいたのかとの質問があった。これに対しては,少数派ながら日本仏教の宗派の僧侶になった者もいたことが示され,龍谷大学に留学し本願寺派の僧籍を取得した人物の例などが挙げられた。

 野世氏の報告については,関東別院での多角的な事業を支える資金や予算配分についての質問があった。これに対しては,各種の運営資金は基本的に現地の寄付等で調達しており,ただし予算規模や配分については現状では不明であると述べられた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

DSC_9466.JPG

このページのトップへ戻る