研究活動

研究活動

2017年度 グループ2ユニットB 第1回セミナー

報告題目近代仏教婦人会の諸相
開催日時2017年7月14日(金)13:30~17:30
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
参加者21人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所、龍谷学会

■報告者・題目:

中西直樹(龍谷大学文学部教授)

「近代仏教婦人会の興起とその歴史的意義」

岩田真美(龍谷大学文学部准教授)

「小野島行勲の関東開教と上毛婦人教育会」

近藤俊太郎(龍谷大学文学部非常勤講師)

「近代大阪における真宗の女子教育―相愛女学校創立をめぐって」

【報告のポイント】

 近代の仏教婦人会については,現在のところ研究の蓄積が少ない。今回のセミナーでは,仏教婦人会の黎明期である1880年代の動向を中心に,各地の婦人会やこれと密接に関連した仏教系の女学校の設立をめぐり,各報告者が資料に基づき検証を行った。

【報告の概要】

 中西直樹氏は,近代日本において仏教婦人会が勃興してくる歴史的背景や,初期の婦人会の特徴とその意義などについて論じた。1880年代は,仏教の教化団体や組織が近代化していく起点となった時期であった。キリスト教の勢力伸張に対する危機感の高まりに加え,教導職の廃止後に顕著になった各宗派内での勢力争いの影響もあり,全国各地で宗派の意向から比較的自由な教化団体(仏教青年会など)が,次々に結成されていった。こうした動きは,企業勃興ブームを受けた在地の保守勢力からの資金援助によっても後押しされた。

 当時のキリスト教界では,説教会の開催や文書伝道が推進され,女性教化や女子教育にも力が注がれていた。仏教側はこれらへの対抗措置を,キリスト教と同様の活動を行うことによって講じた。また,キリスト教との対決のためにも巨大な仏教結社が創設されていったが,自由民権運動との連動への危惧もあり,本願寺派では条例により全国的なレベルでの組織を禁じた。これ以降は,地域レベルで護法的な活動が進められた。

 1882年2月,仏教系の婦人月刊誌の先駆的存在である『婦人教会雑誌』が創刊される。編集権発行人は水渓智応であり,発行元の婦人教会(東京日本橋区橘町)は,橘町女人講を母体として設立された。同会では,「婦人の自立」が目標として説かれていたが,それはあくまでも「日本帝国自立」に貢献するためであり,そこでは国粋主義的で保守的な女性教化(徳育)が目指されていた。そもそも,同会の設立に携わったのは男性僧侶や地域の富裕商人であり,会の方針として女性の主体性はほとんど考慮されてはいなかった。

 岩田真美氏は,群馬県前橋に創設された清揚女学校に本部を置いた上毛婦人教育会と,その機関誌である『婦人教育雑誌』について検討した。同会を主導したのは,本願寺派僧侶の小野島行勲(1847-1927)であった。彼は周防の在家出身者であったが,熱心な真宗門徒の家に生まれ育ち,やがて大洲鉄然らとともに宗派内の改革運動に取り組んでいくようになった。維新後には九州遊学を行い,私塾「晩香堂」において塾頭を務めるようなった。

 熊谷県(後の群馬県)の県令である楫取素彦と寿子(吉田松陰の妹)夫妻からの依頼を受け,小野島は布教活動のために同県に派遣された。同地では,新島襄の影響もありキリスト教の入信者が多く,布教は困難を極めた。小野島は結社「酬恩社」を創設し,勢力を拡大するも,本願寺派の条例改定により同社は解散に至った。その後,前橋に清揚女学校が創設され,宗派内での婦人教育の奨励が説かれたが,広く受け入れられることなく,またキリスト教系の前橋英和女学校が設立されたこともあり,わずか3年で閉校した。

 1887年10月,前橋婦人相談会を中軸として,上毛婦人教育会が発足した。翌年5月に機関誌『婦人教育雑誌』創刊され,当初の会員は400名であった。同誌の目的は,女子教育の普及と,その教育法について議論することにあった。寄稿者には,島地黙雷をはじめとする本願寺派の有力者のほか,志賀重昂など政教社のメンバーがいた。その主眼は,「国粋保存を精神」とする「日本男児」にふさわしい「日本婦人」の養成にあり,個々の女性仏教者の育成は重視されていなかった。

 近藤俊太郎氏は,1880~90年代の大阪における真宗の女子教育の実態について,相愛女学校を例にして検証した。明治前半期の大阪における女子教育は,キリスト教が積極的に展開しており,川口外国人居留地を中心として,女学校の活発な設立がみられた。一方,1880年代後半になると真宗の婦人会の活動が開始され,次第に規模を拡張していった。その背景としては,日本社会の欧化主義から国粋主義への転換や,企業勃興による仏教信徒の起業家たちからの資金援助の拡大などがあった。

 相愛女学校は,1888年6月に設立許可を得て,翌月に開校した。校名の由来は『大無量寿経』の一文にあり,設立目的としては,婦女と貧民に対する現状の教育の不十分さを是正するという意図があった。カリキュラムとしては,裁縫をはじめとする旧来型の教育が施されながらも,同時に世界史などの普通教育も導入されており,また真俗二諦を基盤とした真宗信仰を伝えることも目指されていた。

 同校の設立発起人の大半は,大阪の本願寺派寺院の僧侶と,その門徒であるところの大阪実業界の有力者であった。すなわち,同校の設立には,明治期の本願寺派による諸事業を経済的次元から支えた,有力門徒が大きく関与していたのである。こうした設立事情もあり,同校の学生はおそらく富裕層の「令嬢」に限られており,女子労働者は教育対象となっておらず,その教育理念も当時の一般的な良妻賢母思想の域を出るものではなかった。

【議論の概要】

 中西氏の報告に対しては,『婦人教会雑誌』の購読者の規模や,婦人会の母体となった女人講の特徴などについて質問がなされた。これに対しては,購読者の広がりについては,婦人雑誌間の連携関係を追跡することでその実態が明らかになってくる可能性があること,近世の女人講については資料がほとんど残っておらず,近代とのつながりはわかりにくいことなどが指摘された。

 岩田氏の報告に対しては,小野島による群馬県での布教活動が「開教」と表現されたことの意味や,女学校での仏教(真宗)教育の有無について質問があった。これに対しては,「開教」というのは,真宗の教えが広まっていない地域(「無教地」)を対象とした布教であるという意味であり,また女学校では仏教教育はなされていなかったとの回答があった。

 近藤氏の報告に対しては,「令嬢」を受け入れていた相愛女学校の経営状況や,教育を受ける上でのハードルとなる学費の実態などについて質問がなされた。これに対しては,同校の学費は同時期の他の私立学校などに比べて安価であったと回答された。またこれに関連して,時代が下り明治30年代以降になると,工場布教が盛んになるのにともない,女工を組織した婦人会も創設されていくとの指摘があった。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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