研究活動

研究活動

2017年度 グループ1ユニットB 第2回セミナー

報告題目近代仏教の時代のすれちがい―戦前,戦中の日本で刊行された仏教雑誌,書籍にみるカンボジア関連記事―
開催日時2017年11月17日(金)13:30~17:00
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
報告者笹川秀夫(立命館アジア太平洋大学教授)
ファシリテーター林行夫(龍谷大学文学部教授)
コメンテーター中西直樹(龍谷大学教授)
参加者10人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【報告のポイント】

 戦前の日本仏教とカンボジアとのかかわりについては,近年まで,その実態がほとんど明らかにされてこなかった。本報告では,カンボジアの近代仏教史について概観した上で,戦前の日本で刊行された仏教雑誌や書籍をおもな資料にして,当時の日本仏教のカンボジア仏教に関する認識や理解を,詳しく検証した。

【報告の概要】

 19世紀後半以降,フランスによるカンボジアの植民地化が進行した。20世紀に入ると,カンボジアに対するタイからの影響を抑えるため,フランス行政当局により,カンボジア僧侶のシャム留学の途絶が企図された。また,1900年代からは寺院の新規建立に関する国家的な規制が設けられるようになり,1916年には,国内の僧侶に対して僧籍証(IDカード)の携帯が義務付けられた。

 一方,1900年代後半から国内のパーリ語教育の拡充が図られ,パーリ語学校が開校された。この王立の学校の運営には,1920年代にはフランス極東学院が関与するようになった。1920年代には,王立図書館が設立され,1930年には仏教研究所も創設された。ここにもフランス極東学院が関与してきたが,これらの研究機関を基盤にして,カンボジア版三蔵(トリピタカ)の編纂・刊行が進められた。

 また,20世紀前半には,チュオン・ナートとフオト・タートに代表される,改革派の若手僧侶の台頭も見られた。ハノイのフランス極東学院に留学した彼らは,帰国後,上記の学校や図書館や研究所を通じた活動を開始した。パーリ語仏典の研究と,律蔵への回帰が,その改革運動の骨子であった。当初は保守派からの抵抗が強かったが,1940年代前半には彼らの地位がサンガ内で確立されていった。カンボジアの国語辞書の編纂にも携わった彼らの活動は,仏教をカンボジアの国民文化として位置づけることにも貢献した。

 笹川氏は,こうしたカンボジア仏教の展開を踏まえた上で,1930年代から1940年代前半までの,『海外仏教事情』に見られるカンボジア関連の記事の内容を検討した。それらの記事の多くは,アンコール遺跡に関するもので,当時のカンボジアの仏教事情についての記事は,ほとんどが不正確な内容であった。例外は,1930年代の薩摩治郎八(通称「バロン・サツマ」,国際的に活動した豪商)と,1940年代の金永鍵(キム・ヨンゴン,フランス極東学院に勤務)で,彼らは現地での情報収集や,フランス語文献の読解をもとに,当時のカンボジア仏教について,おおよそ正確な理解を示していた。

 一方,1940年代に日本で刊行された書籍を幅広く検証してみても,同時代のカンボジア仏教に関する的確な記述はあまり見つからなかった。のみならず,そこには東南アジアの仏教に対する蔑視的な発言も見られ,カンボジア仏教とタイ仏教の相違も,まったく理解されていなかった。

 王立図書館から日本に宛てた書簡には,カンボジア版三蔵と日本で刊行された『南伝大蔵経』との交換に関する記述があったりもした。だが,総じて当時のカンボジアと日本での仏教をとおした交流は,盛んとは言い難かった。

 こうした戦前の日本仏教とカンボジア仏教の「すれちがい」は,戦後になると改善していったようであり,世界仏教徒会議などをとおして,両国の仏教者の相互交流が行われたようである。この戦後の展開を跡づける作業については,今後の研究課題となる。

【議論の概要】

 中西直樹氏は,明治期に西本願寺の島地黙雷がフランス開教を目指した(本山は許可せず)背景の一つとして,彼がフランスとカンボジアの関係を念頭において,仏教をとおした橋渡しを企図したのではないかと指摘し,昭和戦前期より以前の日本仏教とカンボジアとの関係についても検討する必要性を示した。また,林行夫氏らからは,カンボジアの改革派僧侶たちの大乗仏教に対する認識の有無や,タイ仏教との差別化の内実,あるいは彼らと植民地政府との関係などについての質問があった。これらに対して笹川氏は,改革派僧侶たちは中国からの移民などをとおして大乗仏教のことは認識していたはずだが,それがどのような性質のものであったのかは,はっきりとしないこと,彼らによる改革運動では,タイ仏教の影響下から脱却するため,フランス流の仏教学の習得に基づくニュートラルな「仏教」の確立が目指されていたこと,そして,植民地への抵抗は見られなくはなかったが,仏教者による主体的な解放への試みは低調であったことなどが述べられた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

DSC_0044.JPG

このページのトップへ戻る