研究活動

研究活動

2017年度 グループ1ユニットA                  文化講演会「聖地に受け継がれし伝灯の法会」〈第1回〉

報告題目奈良時代から続く不退の行法―東大寺修二会の世界―
開催日時2017年11月19日(日)13:30~15:00
場所龍谷大学響都ホール校友会館
報告者狹川普文(華厳宗大本山東大寺別当)
参加者55人

■共催:龍谷大学仏教文化研究所

【講演のポイント】
 華厳宗管長、第222世東大寺別当の狹川普文師より、「二月堂修二会」の成立や歴史について詳しく説明がなされ、改めてその意義を知ることとなった。

【講演の概要】
 法会勤修の目的は自利行お利他行の二面性があり、読経・講経・悔過・論義・説戒に形式は大別される。寺内における様々な法会は、僧侶の修学の階級に基づいて配置され、僧位・僧階昇進の条件とされ、寺内組織の形成においても重要な役割を果たしている。
 東大寺の前身寺院としては、夭折した聖武天皇の皇太子基親王の追福菩提のために建立した金鍾山房(金鍾寺)に遡る。良弁を筆頭に智行僧九口が寺院として成立し、聖武天皇40歳を祝して寺内千住院において審祥大徳を請じて『華厳経講説』を創始した。これは聖武天皇の盧舎那仏造立に教学的裏付けを与えることとなり、東大寺創建の重要な契機になったと言われている。『華厳経講説』、『大仏開眼供養会』の勤修の経過を踏まえ、東大寺諸法会の原形と見なされている。
 「二月堂修二会」の成立において、先ず「二月堂」という呼称については、9世紀後期には寺内に通用していたことが知られるが、寺家からの下行はあくまで「仏僧供」料に限り、食料・諸下行料・雑用料は含まれず、寺家諸会の下位に位置づけられていた。しかし、寺内年中行事として法会の位置を占めていた。
 この法会の足跡を辿れば9世紀初めに実忠が記した「十一面悔過」に至り、さらに天平勝宝4(752)年創始という通説に繋がる。この「十一面悔過」は六時に繰り返される悔過作法を中軸とし、必然的に祈願・呪禁作法を伴って構成され、行法の基本部を成す。修二会創始の頃は実忠自身が願主であり、国家の意向を承けた法会ではなかった。当初は加行の場を設けることによって悔過法要の習熟を図り、僧団内の自行と認識されていた。当時より練行衆の自主的運営に委ねられ、実忠没後もその形態が踏襲された。
 平安後期には僧団外に対しても目が向けられ、俗人の聴聞者が見受けられ、巷に知られる法会となる。俗人の信仰心を直接的に惹き付ける法会が多いとは言えない時代の東大寺諸法会のなかにあって、視覚的にわかりやすい多くの所作より構成される二月堂修二会は希有な存在であった。寺僧の研鑽と並び、俗人の行法自体への信仰が修二会行法存続を支える要因になったとも考えられ、両者の融合こそが仏教儀礼の真髄を示す。
 悔過会とは罪障を懺悔するための法要であり、正月や二月に勤修される法会は神道における祈年祭の仏教的表現と考えることができる。全てに清浄を求める本質も、来る年の除災招福を祈り願う目的も変わらない。餅や造花椿による荘厳は招福の象徴であり、実り豊かな年を願う人々の思いが鮮やかに表現されている。
 本尊を讃嘆しながら礼拝・行道し、日夜六時に繰り返して勤修するなか、懺悔の心情が納受されて罪障が許され、願望も叶えられる。また、この練行の功徳は波及し、多くの人々の様々な願望も叶えていくのである。
 8世紀半ば過ぎには、悔過会が現在と同様の目的で勤修される法会となり、公的な恒例行事として認識されていた。修二会では六時の悔過作法ばかりではなく、戒律や懺悔に関わる作法、神道や正純密教、民間習俗や伝説に至るまで、実に様々な要素が指摘される。しかし、これらの要素が有機的に関わり合い、ひとつの法会として成立していることが大きな特色と言い得る。
 また、悔過会において神名帳の奉読事例の多さも特色のひとつとして挙げられ、修二会の神名帳は記載神も多く、独特な唱法や前後の所作があり、他には例がない程の存在感を示している。堂司が奉読役に渡すまでの作法にも人目を引くものがあり、これほど丁重な作法は類を見ない。
 記録によると、神名帳の奉読は学侶に限られ、衆堂がその任に携わることはなかった。この事例は少なくとも宝暦13(1763)年までに実施されており、特に学侶のなかでも得業の称を得た者の奉読例が多く、なおざりに扱われる役ではなかったことがわかる。当初は祈年という目的を媒体として法会に取り入れられながら、様々に技が磨かれ、工夫も加えられ、神名帳の奉読は修二会に欠くことのできないものである。

【文責】アジア仏教文化研究センター

DSC_0100.JPG

DSC_0088.JPG

このページのトップへ戻る