研究活動

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2017年度 グループ1ユニットB 第3回学術講演会

報告題目明治印度留学生
開催日時2017年12月8日(金)13:00~15:00
場所龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
報告者奥山直司(高野山大学教授)
ファシリテーター嵩 満也(龍谷大学教授)
参加者15人

【講演のポイント】

 明治20年代以降,日本の少なからぬ仏教徒が,セイロン(現スリランカ)やインドに留学した。彼らはどのような背景をもち,何を目的に留学し,その行動にはいかなる意義があったのか。これらの点を,詳細に検討する講演が行われた。

【講演の概要】

 明治20年代に入る頃から,日本の仏教徒がセイロンやインドに続々と留学した。先行して西洋に留学する仏教徒がおり,そのあとに続くかたちでアジア留学も盛んになったのである。仏教徒のアジアでのおもな留学先は,時代の推移とともに南アジアからチベットへと変遷を遂げていったが,今回はそのうち初期の段階に焦点が当てられた。

 なお,講題の「印度留学生」には,セイロンに留学した仏教徒も含める。その理由としては,セイロンへの留学生は,その後にインドに向かう場合が多かったからである。当時のセイロンは,インフラ整備の進んだ寄港地であり,留学生の支援組織も複数あり,外国人の訪問や滞在に適していた。

 また,南アジアに渡航した仏教徒を類型化すると,(A)留学生タイプ,(B)調査者タイプ,(C)視察員タイプ,(D)巡礼者タイプに分けられるが,今回は(A)が中心となる。

 1886(明治19)年,釈興然がセイロンに渡った。以後,河口慧海が2度目のインド・ネパール・チベット旅行を終えて帰国する1915(大正4)年まで,現在わかっている限りで32人(興然と慧海を含める)の印度留学生が存在した。

 彼らの留学の意図や趣旨はさまざまだが,究極的には,仏教の原点の探求と,そこで得られた知見や学識を活かした仏教改革が目指されていた。それは,日本国内の仏教の動向とも密接に関連した動きであった。また,植民地主義の西洋列強に対してアジアの人々が民族的覚醒へと向かっていた時代状況も大きかった。1889年2月,神智学協会のオルコットとダルマパーラが来日して,仏教を通したアジアの連帯の機運が高まり,その影響で真宗各派が留学生を送る計画を建てたのは,そうした時代状況を象徴する出来事であった。

 留学生たちが現地で直面した困難には,まずもって南アジアの気候風土の厳しさがあった。東温譲や堀至徳や清水黙爾は留学先で客死しており,善連法彦のように留学中に病気にかかり,帰国後まもなく死去した者もあった。また,ヨーロッパ留学組とは異なり,全体的に学資が不足していた人物が多く,さらに,カースト制や外国人に対する入学制限に苦労するケースもあった。

 釈興然が最初に留学した背景としては,日本とセイロンの仏教ネットワークの形成があった。スリランカの郡の行政副官で仏教復興を志したグネラトネが,仏教シンパの外交官である林董に書簡を送った。これを契機として,林の知人である南條文雄や,釈雲照らとのネットワークが出来上がり,日本からスリランカへの留学生派遣計画も進んだ。グネラトネには,上座部仏教を日本に移植するという意図があった。そして,留学生として選ばれた興然は,まさにこの意図にそった活動を試み,グネラトネからも非常に気に入られた。

 一連の印度留学の成果や意義としては,以下の5点が上げられる。すなわち,(1)梵語・パーリ語・チベット語仏典をはじめ,膨大な資料を日本にもたらしたこと,(2)それらの仏典の研究に先駆的な役割を果たしたこと,(3)日本社会に大量の南アジア情報を提供したこと,(4)現地の人びととの交流を通してインドと日本を結ぶ役割を果たしたこと,(5)留学生の釈興然による日本に上座部仏教を移植する試みや,河口慧海によるウパーサカ仏教(在家仏教)の提唱などが,日本の仏教界に刺激を与えたこと,である。

【議論の概要】

 会場から,帰国後の留学生の動向についての質問があった。奥山氏はこれに対し,興然の指示により派遣された真言宗僧侶たちは,日本にサンガを移植しようとしたが失敗し,離散してしまったこと,また,印度留学生たちは帰国後に,宗派内ではおしなべて活躍できておらず,この点は多くが宗派の中心にいた西洋留学組とは異なる傾向であることなどを述べた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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