研究活動

研究活動

2018年度 グループ1ユニットA 第1回学術講演会

報告題目弘法大師空海の伝記の新しい研究法
開催日時2018年6月14日(木)10:45~12:15
場所龍谷大学大宮学舎東黌101
報告者阿部龍一(ハーバード大学教授)
参加者227人

■挨拶:楠 淳證(龍谷大学アジア仏教文化研究センター長)

■講師紹介:道元徹心(龍谷大学教授)

■司会:藤丸 要(龍谷大学教授)

■主催:龍谷大学世界仏教文化研究センター アジア仏教文化研究センター
    龍谷学会(担当:仏教学科)

【報告のポイント】
 明治以降、空海の伝記に関する学術書、歴史小説、漫画、劇画を含め、数多く出版されたが、どれを読んでも陳腐で退屈なものであり、その理由としては全てが同じ「筋書き」を共有していることが考えられる。この筋書きはA嵯峨天皇による多大な庇護、B天台法華宗の開宗と独立に一生を捧げた最澄とのライバル関係、C真言宗の成立の3つから成り、全てを再検討する必要がある。そこで、この度はA嵯峨天皇による多大な庇護に対して講演がおこなわれた。

【報告の概要】
 嵯峨天皇と空海との仏事に関する交流は極僅かであり、弘仁13年2月に東大寺に灌頂堂を建立し、空海に息災・増益の修法を行わせたことの他に数回あった程度であった。また、全て平安京の外で行われ、宮中に空海を招いての仏事は一度もなかったようであり、空海の密教の最大の庇護者は嵯峨天皇だったとする説に対しては疑問がもたれる。
 一方、淳和天皇(即位(弘仁14年4月)から退位(天長10年2月))は嵯峨天皇とは対照的で、空海を積極的に宮中に招いて顕教と密教の法会に登用した。この厚遇により、先ず高雄山寺が本格的な密教寺院として始動し、国家の大官寺である東寺にも密教が導入された。ちなみに、高野山の開創事業が本格化したのも天長年間のことである。
 従来の空海研究が嵯峨天皇との関係ばかりを取り上げ、淳和天皇との関係を軽視していることは摩訶不思議としか言いようがない。この歴史的変化のきっかけとして注目されるのは、弘仁13年2月の嵯峨天皇による東大寺灌頂堂の建立と、同年春の灌頂堂における空海による平城太子天皇・高岳親王父子への灌頂である。
 空海撰「平城天皇灌頂文」によると、平城上皇と高岳親王に対して密教の入団儀礼である灌頂を執行したとある。先ずこれは嵯峨天皇の治世(弘仁年間)と淳和天皇の治世(天長年間)を橋渡しする、空海の仏教者としての活動の最大の転機と位置づけることができる。また、灌頂は嵯峨天皇が兄の平城上皇と和解するための政策として実施されたので、平安初期の政治史上でも重要な出来事である。しかし、従来の空海の伝記研究においては、これを軽視、無視、あるいは薬子の変の汚名を着た平城上皇と空海を関連させることを避けるため、灌頂が行われたこと自体を否定する者もある。
 この灌頂の歴史的経緯は以下の通りである。薬子の変の事後処理として、平城帝は平城宮に太上天皇として御すことを許されるが、現実にはそこで平安朝廷が派遣した文官・武官の監視の下、崩御の天長元年まで蟄居生活を送ることとなった。変の直後に平城帝の第3子の高岳親王は皇太子を廃されて無品となり、かわりに嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立太子された。そして、嵯峨天皇は治世の後期になると、弘仁14年の退位に向けて平城上皇に対し、関係修復のための措置を取り始めたのである。
 嵯峨朝廷による奈良・東大寺の灌頂堂の建立と、空海による平城上皇父子への灌頂も、和解策の一環として理解することができる。そもそも、灌頂は本来インドの王の即位礼を仏教化したものである。灌頂儀礼では受者は法王子としての再生を表す五色金剛線を左肩から掛け、含香、香水、塗香、焼香で身体を清め、鏡加持では法王子に生まれ変わった自分を確かめるために、阿闍梨から手渡された鏡で自らの姿を見て確かめる。嵯峨天皇は灌頂儀礼の内容をよく把握し、兄の平城上皇、甥の高岳親王が実際に身体に着け、口に含み、また手に取る道具(支具)に正倉院から出庫した天皇家の宝物を提供し、誠意を示したと言い得る。嵯峨天皇は平城父子のための祝賀儀礼として灌頂が最適であると見て採用し、東大寺と協力関係にあった空海をそこに起用したということであった。

【文責】アジア仏教文化研究センター

DSC_0452.JPG

DSC_0441.JPG

このページのトップへ戻る