研究活動

研究活動

2018年度 国際シンポジウム「大谷光瑞師の構想と居住空間」

開催日時2018年10月6日(土)9:30~18:00
場所龍谷大学大宮学舎東黌101教室
ファシリテーター三谷真澄(龍谷大学国際学部長)
参加者160人

【基調講演】

入澤崇(龍谷大学長)「大谷光瑞師のめざしたこと」

【学術発表】

陳祖恩(上海東華大学)「光瑞師と上海別院・無憂園」

黄朝煌(国立高雄大学前研究員)「台湾・逍遥園と修復事業」

イムレ・ガランボス(イギリス・ケンブリッジ大学)「欧州における大谷光瑞師の構想と居住空間」

エルダル・キュチュキュヤルチュン(ボアジチ大学)「トルコにおける大谷光瑞師の構想と農業」

菅澤茂(工学院大学研究員)「大谷光瑞の建築観について-その生涯に亘る建築家との関わりから考察する」

和田秀寿(龍谷ミュージアム学芸員)「二楽荘と神戸大港都構想論-大谷光瑞師がめざした神戸への思い」

市川良文(龍谷大学文学部)「管見三夜荘」

柴田幹夫(新潟大学)「中国における大谷光瑞師の動向」

加藤斗規 別府大谷記念館)「旅順大谷邸」と「大連浴日荘」

掬月誓成(別府大谷記念館)「別府・観光都市計画と晩年の大谷光瑞師」

■コメント:白須淨眞(広島大学),片山章雄(東海大学),松居竜五(龍谷大学国際学部)

■共催  :龍谷大学世界仏教文化研究センター

■協賛  :京都府

【報告のポイント】

 大谷光瑞の遷化(逝去)70年を記念した国際シンポジウムが開催され,基調講演,国内外の研究者10名による学術発表,コメントを踏まえた討論が行われた。特に光瑞が設計にも関与したアジア各地の建築・居住空間に焦点を当てた諸報告がなされ,従来の「大谷光瑞=大谷探検隊」のイメージを塗り替える,新たな大谷光瑞像が示された。

【報告の概要】

 基調講演で入澤崇氏は,大谷光瑞の世界認識や「興亜計画」構想について解説し,光瑞の目指した仏教文明の再構築の意義を明らかにした。光瑞は,地理学や気象学などヨーロッパの最先端の学問を摂取し,ヘディンやスタインからの影響の下,ロンドンで探検隊の構想を練る。光瑞師の構想については,同時代の理解はあまり得られておらず,「地理狂」の「道楽」などと評されもした。他方で,小川琢治(京都大学の初代地理学講座の教授。湯川秀樹の父)のような理解者もいた。光瑞は宗主を引退後,中国,東南アジア,トルコでの農業支援や,絹織物産業の開拓を進めた。光瑞は常に仏教の精神,とりわけ慈悲について考えた。彼が生涯に成し遂げた事業の数々は,慈悲の具現化であり,世界的視野に立った文明論的視点も,そこでは提示されていた。

 陳祖恩氏は,西本願寺上海別院および上海の光瑞の別荘である無憂園の概要と社会的機能を論じた。上海別院は1931年に落成し,既に建立されていた真宗大谷派と日蓮宗の寺院とともに,同地には新しい仏教(寺院)景観が生まれた。これらの建築は,いずれも日本の伝統的な様式ではなかった。近代建築の風格を持っており,外側は西洋あるいはインド風,内側は和風で造形されている。これは,当時の日本の国策と深く関連したデザインであった。一方,公共租界に建立された無遊園は,春には桜が咲くなど日本文化を表現した空間であり,日本人居留民が自国の文化に思いをはせる場所としてあった。戦後,西本願寺の本堂と会館は接収され,1949年以降,庭園は次第に壊されていく。やがて同地には平和博物館と図書館が建てられ,そこでは日本人が残した書籍や美術品が集められた。

 黄朝煌氏は,台湾の逍遥園について,同園の命名の背景や建立の経緯に加え,近年の修復事業の展開について詳細に報告した。1939年,光瑞は高雄市郊外において土地を購入し,逍遥園を建設。名称の由来は「荘子・逍遥遊」である。同園の別邸は鶯色の概観を有する二階建てであり,三面が池に囲まれていた。同地での農園の開墾には,日本各地から募集された大谷学生が尽力し,そこで光瑞が南洋から将来した熱帯植物が栽培される。逍遥園の建立にあたっては,台湾総督府が日本から購入した木材などが用いられた。光瑞や大谷学生が台湾から撤退後,同園は台湾政府の所有下にあったが,近年,国内の歴史建築に指定され,修復事業が進む。また黄氏らは現在,同園を取り巻く歴史を検証し,来館者に学んでもらうための取り組みを進めている。

 イムレ・ガランボス氏は,ロンドン時代の光瑞が滞在した家屋について,その歴史と意義を検証した。この家屋は,美術と強い関連を持つ場所である。ジョージ・モーガンが設計し,おもに画家のスタジオやアトリエとして使用された。1859年にスコットランド出身の肖像画家であるスウィントンが居住し,1900年代には著名なダンサーのイサドラ・ダンカンも滞在している(ただしこの頃は無名)。ダンカンと光瑞は滞在期間が重なっているが,互いに言及した記述はない。1920年には美術批評家のフランシス・ハワードが,ここにアートのためのギャラリーを設置し,斬新なコンセプトに基づく現代美術の展示会を開くなどした。光瑞のロンドン滞在時代の写真(1901年)を改めて確認すると,英語の美術雑誌を持っていたと判明する。光瑞が同家屋をロンドンの滞在場所に選んだのは,おそらく著名な画家たちがいたからであり,そこに住まうことで自身の社会的評価の高まりを期待していたと思われる。

 エルダル・キュチュキュヤルチュン氏は,トルコで実施された光瑞による事業の諸相を明らかにした。光瑞は1924年の,トルコ共和国設立後わずか3ヶ月に,帝国ホテルに財界人を集め,トルコへの注目・投資をいちはやく提唱した。当時は,西洋列強がトルコの植民地化を画策した時代であり,また光瑞が「先生」として仰いだ徳富蘇峰によるイスタンブール訪問記からの影響もあったと思われる。光瑞は,トルコの初代大統領であるケマル・アタチュルクと合弁会社を興しさえした。そして,アンカラの土地を開拓し,大谷学生らを動員して,トルコ人とともに事業に従事させた。トルコのみならずアジア全体を愛した光瑞は,農業が国の基だと考えた。著書『興亜計画』では,アジアのどの地域で何を栽培すべきかが詳細に記されており,本格的な農業研究も進めるなど,彼は農業によるアジア諸地域の興隆をはっきりと目指していた。

 菅澤茂氏は,光瑞と西本願寺関連の建築との関係を概説した。本願寺の建築・空間の設計に関し,光瑞はたびたび意見を示している。なかでも伊藤忠太が設計した建築への関与は注目される。たとえば,本願寺伝道院(旧真宗信徒生命保険株式会社本館)である。それは,サラセン風を基調としながら,日本の墓(宝篋印塔)の様式や和風の屋根を取り入れ,仏教建築のディティールとイスラーム風が融合した,独創的なデザインである。これは伊東忠太のみによる独創ではなく,光瑞のアイデアが取り入れられていたと思われる。また,関東大震災による全焼後に再建された築地本願寺にも,上海別院と同じ造型の塔が建てられるなど,光瑞の深い関与が認められる。

 和田秀寿氏は,二楽荘の建設や,その延長にある光瑞の神戸大港都構想の実態を明らかにした。東京ドーム17個分に相当する広大さを有する二楽荘は,1909年に神戸東灘区に竣工され,地域住民を驚かせた。竣工の二日前に光瑞は,僧侶の仕事は布教伝道であると同時に,農業や教育も大事と述べており,この考えを具現化するための壮大な荘園・建築の設立であった。こうした光瑞の神戸での事業は,集大成としての「神戸大港都構想論」(1942年)に結実する。戦時下の中断により実現は適わなかったが,構想として空港,鉄道(弾丸列車),地下鉄,トンネル等の設置が描かれており,具体的な計画が立てられていた。

 市川良文氏は,京都市伏見区に所在した光瑞の別邸である三夜荘について検討した。1876年に竣成した三夜荘は,当初は光瑞の父である明如の別邸であった。明如の時代には,おもに彼の療養所として利用され,あるいは賓客のために用いられた。一方,光瑞の時代になると,静養・滞在場所としての役割のほか,本願寺の行事のためにも広く利用されるようになる。あるいは,政府の行事にも使われた。また,一般にも広く公開され,園遊会が開催されもした。したがって,三夜荘は,従来言われていた宗主にとっての私的な場でなく,公的な利用も活発になされた空間なのである。

 柴田幹夫氏は,上海や武漢(漢口)など中国での光瑞の動向を検証した。上海別院の前身である西本願上海出張所は,1906年に設置され,やがて本願寺派による大陸布教の中心地となる。仏教婦人会や青年会,日曜学校のほか,1913年には上海女学校が創設されており,布教・教育活動の場として大きく発展した。一方,光瑞は1899年に武漢(漢口)を訪問し,後に漢口別院を設置する。光瑞は同地を選んだ理由は,「国家の前途」と宗教の将来を同時に考える上で,中国の心臓部にあたり,日本をはじめ列強各国が租界を設けていたこの場所に,大きな可能性を認めたからと思われる。

 加藤斗規氏は,旅順と大連での光瑞の居住空間について考察した。1914年の隠退後に海外に活動の拠点を移した光瑞は,旅順に滞在するため,「旅順大谷邸」を設置した。この場所で光瑞は,中央アジア発掘品の整理と「策進書院」による子弟教育を行った。また,大連市郊外に設けた「浴日荘」は,光瑞の別荘のなかでも異彩を放つ。三角形の角を円形としたような「蛤型」の平面プランを持ち,ドーム型をした鉄筋造で,大連市街を見おろす高台に位置した。附属して広大な農地である「大谷授産場」も設置された。光瑞が同地に別荘と農地を設けた背景には,「満州」の地での作物栽培や殖産には何が適してるのかを,自ら実践的に探り,世に広めるという意図などがあった。

 掬月誓成氏は,晩年の光瑞が構想した別府での観光都市計画について検討した。1947年3月に大連から帰国した光瑞は,別府市での入院中に同地の「観光都市建設私案」を作成し,市長に提示する。この私案は,港,駅,道路,工業・農業など,おもにハード面からの都市計画を構想しており,これは「興亜計画」からの光瑞の一貫した考え方であった。退院後の光瑞は,九州各地を巡回し,知事その他に面接,産業復興の助言等を行った。また,別府市鉄輪「大谷別邸」に一時的に移り住む。この別邸は,光瑞没後に本願寺別府別院に移築され,後に大谷記念館となる。

【議論の概要】

 コメントとして白須淨眞氏は,「居住空間」の定義の精緻化や,思想としてのアジアという問題意識を踏まえた上で,光瑞の著しい多面性と,他方での仏教(真宗)への収斂を,今後どのように考えていくべきかを問うた。片山章雄氏は,光瑞が滞在した邸宅や別荘の地理的・空間的位置の機能や,それぞれの建築に付された名称の意味を,より深く検討する必要があると指摘した。松居竜五氏は,世界中を旅し,世界各地に居住した光瑞が,世界中の多種多様な文化や風土を経験し,その経験を建築の設計や空間のデザインに活かした点を高く評価した上で,その生き方は「世界人」「普遍人」と評せると論じた。これらのコメントを踏まえ,討論では,フロアからの一部の質問に答える形で,特に報告者が他の発表内容を踏まえた上で,自らが対象とした居住空間の歴史的位置,建築素材,建物や立地条件,居住環境等の共通性などをそれぞれの立場で位置づけた。

【文責】アジア仏教文化研究センター

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